【短編小説】痛みの花
インターホンのモニタには、いつものごとく、表情に乏しい彼女が、所在なさげに立っている姿が映っていた。月一ペースでこの場所に足を運んでいるはずなのに、彼女はいつも初めて来るかのような雰囲気を漂わせている。
「開けたから、入ってきて。」
紗里奈の声に、彼女は軽く頷いて答えた。
学生時代からの友人である優美は、紗里奈の家からそう遠く離れていないところに住んでおり、1ヶ月に1回、紗里奈の家に来て泊まっていく。
そうなった経緯は覚えていないが、その訪問には一つ目的がある。
「元気だった?」
「う~ん。まあまあかな。」
「何か変わったことはあった?」
「一ヶ月で変わるも何もないよ。」
優美は荷物を下ろし、上着を脱ぎながら、そう答えた。このやり取りも、毎回大きな変化はない。優美は、紗里奈から見ると、いつも表情に乏しく、穏やかと言えば穏やかだ。大きく感情を出すことは、まずない。
大抵、紗里奈がここ1ヶ月の近況を話し、優美はそれに相槌を入れつつ、大人しく聞いている。あまりにも表情が変わらないので、つまらないだろうかと思って、本人に尋ねると、優美は「とっても楽しいよ。」と答える。
優美自体は、自分のことをあまり話さない。
聞き出そうとしても、「変わり映えのしない毎日で、話すことがない。」と返されてしまう。「それよりも、紗里奈ちゃんのことを話して。」と促されてしまうから、話すことが好きな紗里奈は、結局自分のことばかり、話す羽目に陥る。
それでも、話した後、すっきりした気持ちになっているから、ストレス解消のようなものになっているのだろう。仕事への不満や将来への不安でも、優美は気にせずに、適度な相槌を打ちつつ聞いてくれる。優美はとても聞き上手な人間だった。
ただ、話すだけであれば、別に電話でもいいわけで。
2人が会う大きな理由、目的は、話して聞いて、ストレス発散したり、楽しむこと、ではない。
「いいお湯だったよ~。」
「ただのお風呂じゃない。」
「私、いつもシャワーで済ませちゃうんだよね。」
「ちゃんと湯船につかった方がいいよ。」
紗里奈の言葉に、優美はほんの少し表情を緩めた。風呂から上がったばかりの優美の頬は上気し、ただでさえ色が白いものだから、ほんのりとピンク色に色づく肌は、同性の紗里奈から見ても、手を伸ばして、触れたくなるような様子がある。
優美は、紗里奈の前に膝をつくと、くるりと背中を向ける。長い髪を前によけると、パジャマの上を勢いよく脱ぎ捨てた。
紗里奈は思わず息を呑んだ。
下着をつけていない優美の白い背中が、紗里奈の目に飛び込む。その一面に、赤い斑点がところどころ塊になって、びっしりと広がっている。紗里奈は、その内、色が濃くなっているところに、優しく指を這わせた。
「・・今回はいつも以上に、色が濃くない?」
紗里奈の言葉に、優美は少し体を震わせた。そして、紗里奈の方に視線を向ける。その目に映る色から、何を考えているかは読み取れない。
「気のせいじゃない?」
「いや、絶対、濃いよ。その分、華やかで綺麗だけど。」
紗里奈は、優美の背中に向かって、スマホのレンズを向ける。撮影した画面を優美に見せると、彼女の表情が明らかに歪む。表情に乏しい優美にしては、珍しい。
「また、優しい言葉でもかけられた?」
「・・忘れちゃった。」
優美は、紗里奈と視線を絡ませると、そう答えて、表情を戻した。実際、彼女はそのことを忘れ去ったのだろう。紗里奈は、そんな優美の様子を窺いながら、彼女の背中に視線を戻す。
痛みの花。
紗里奈は、優美の背中に広がる赤い斑点を、そう呼んでいる。
優美と知り合った時から、『痛みの花』は、彼女の背中に存在していた。
ただ、今のように背中一面に広がるようなものではなかった。親指の爪ほどの大きさだった『痛みの花』は、年々増え、ここ数ヶ月は背中一面に広がるのを確認している。
『痛みの花』と呼んでいるが、優美は実際に痛みは感じていない。ただ、そこに存在し、しばらくすると薄くなっていくらしい。完全に消えることはない。
2人が会う目的は、この『痛みの花』を観察することにあった。
背中をまじまじと見なくてはならないから、優美が紗里奈の家に泊まって、お風呂上りに確認し、写真にとって残している。紗里奈は、『痛みの花』と名付けた画像フォルダにまとめて保存していて、その枚数は50を超えるのではないかと思われる。
「何だか、百日紅の花みたい。」
「百日紅って何?」
「優美ちゃんも見たことあると思うよ。はっきりとしたピンクの花が房のように咲くの。どちらかと言うと木かな。とっても鮮やかで綺麗なの。」
「・・早く消えればいいんだけど。」
優美は大きく息を吐いた。
紗里奈は、優美をくすぐったがらせないよう気を付けて、注意深く背中に指を這わせた。できれば、唇で触れてみたいが、さすがに優美は嫌がるだろうと思って、自重している。
消えるなんて、もったいない。
口には出さないが、紗里奈は強くそう思う。
優美の白い背中一面に、痛みの花が咲いている。その情景は、とてつもなく美しいのに、消えてしまったら、見られなくなるじゃない。
『痛みの花』は、優美の心が傷つけられた跡だ。
悪口を言われたり、罵られて、傷つくのではない。逆に優しい言葉をかけられて、彼女の心は傷つく。不思議なことに。
優美は、自分の気持ちをいつからか、心の奥深くにしまい込むようになった。過去にかかわった人の影響か、出来事が原因か、それは紗里奈には分からない。優美は、自分のことを語るのをひどく嫌がる。しまい込んだ自分の気持ちの蓋や壁を開け、外に引き上げられるのに怯える。
そんな彼女のことに気づいてしまう、理解してしまう人が、たまに彼女の周りに現れる。彼らは、もちろん優しい言葉を、優美にかける。優美はそれに答えられなくて、その手を取れなくて、落ち込んで、表面に現れた自分の心をひどく傷つける。
すると、『痛みの花』は、鮮やかに彼女の見えないところ、背中に現れる。
「百日紅って、英語でなんて言うんだろう?」
「調べてみたら?」
「Crape myrtleかぁ。」
「変な名前。」
『痛みの花』の方が分かりやすいと言えば、分かりやすい。
「クレープ食べたくなってきちゃった。」
「今日は無理だよ。」
「まぁ、明日でいいけど。そろそろ上着てもいい?」
「え~。家の中だから風邪引かないでしょ?」
紗里奈の言葉に、優美は「そうだけど。」と呟いた後、大きく抵抗はしない。
「これだけ、綺麗なのは、なかなかないね。」
「そうかな。」
「よっぽど、優しくされたんだね。」
「・・私は優しくされる資格なんてない。」
体が震えるのは、涙をこらえる為か、実際寒いのか。
「どうやったら、これは出なくなるのかな?」
「・・助けを求めればいいんじゃない?」
「相手に迷惑かかるし、時間を取らせるし、何よりその相手がいなくなったらどうしたらいい?」
「そんなの、また元に戻るだけじゃない。」
そう言って、紗里奈が軽く笑うと、「それもそうだね。」と優美は肯定した。
優美は結局助けを求められないから、その事実を忘れようとする。表面に出た思いを、また心の奥深くに押し隠して。忘れるから繰り返すことになるということに、多分気づいていない。そして、紗里奈もそれを指摘しない。
「ねぇ、紗里奈ちゃんは、これが出なくなった方がいいと思う?」
「・・そのままだと、ウェディングドレスが着られないね。」
「はぐらかさないで。」
「それは。」
紗里奈は、優美が持っていたパジャマの上を取り上げて、彼女に着せ掛ける。
「もちろん、そう思うよ。だって、友達だから。」
友達なら、自分が優しい言葉をかけて、彼女を助けてあげるはず。
『痛みの花』に魅せられた紗里奈は、そうしない。
『友達』という言葉は、なんて重くも軽くもなるのだろう。
優美の強張った笑みを見ながら、紗里奈はそう思った。
終