【中編】片側だけで感じる彼・彼女 No.2/11
私がこの事象に気づいたのは、彼が気づく一か月前のことだった。
私事で恐縮だが、ちょうどその日、私は大学生の時から付き合っていた彼に振られた。
共に社会人だったが、勤務形態が違い、休みが合わなかった。
合わない時は小まめに連絡を取り合うようにしていたが、日が経つにつれ、連絡を取らない期間が増えていった。理由はその時々で違うが、多くは『仕事が忙しくて。』だった。
そして、今日。仕事終わりに珍しく彼と食事を共にすることになり、その場で別れを告げられた。彼は私と会わない内に、職場の同僚と仲良くなっていた。付き合ってはいないものの(私がいたから)、私と別れて、彼女と付き合いたいと聞かされた。
その場でごねるほど、私の中に彼に対する思いは残っていなかった。だから、仕方ないとそれを受け入れた。
でも、自宅に帰ってくると、彼とのことが思い出されて仕方がなかった。
誰もいない部屋で、私は気が済むまで泣いた。一人暮らしだから、誰もそれを咎める人はいない。手元のタオルで、溢れる涙を拭った。
「?」
一瞬誰もいないはずのリビングの中央に人影らしきものが見えた。
強盗か?ストーカー?
人影が見えたと思われたところに目を凝らす。
先ほどまで泣いていたので、視界はかなりぼやけている。
リビングの中央にはもちろん誰もいなかった。当たり前だ。
きっと、先ほどのことで、頭がオーバーヒートして、変な幻覚でも見たのだろう。それはそれで、やばい状態だけど。
私は、左目を指でこすった。
「!」
すると、リビングの中央に、一人の男性が寝ころんでいる姿が浮かびあがってきた。彼は、こちらに顔を向けて、寝ていた。
私は驚きに目を瞬かせた。すると、寝ていた男性の姿が、スッとかき消される。
何?何が起きてるの?
彼が寝ていたところに歩いて行って、片手で恐る恐る叩いてみるけど、もちろん何もない。
やっぱり幻覚?目が疲れているとか?でも、目が疲れただけで、幻覚なんて普通見ない。それになんで男性の姿が見えたのかという疑問も残る。
私は彼の姿を認識した直前の自分の様子を何とか思い出そうとした。
泣いていて視界がぼやけていて・・左目をこすったんだ。
私は先ほどと同じように、左目を指でこすった。
すると、私の隣に床に寝ころんだ彼の姿が現れた。私が側にいるというのに、彼は変わらず寝ていた。規則正しい寝息を立てていそうだ。いびきとかは聞こえなかった。
左目に当てた指を外して、両目を開くと、彼の姿がかき消える。
左目を瞑ってみたところ、彼の姿が現れた。
・・・片目を瞑ると、彼の姿が見えるらしかった。
彼が寝ているのをいいことに、私は片目を瞑って彼の様子を観察する。
年齢は私と同じくらい。襟元を緩めたワイシャツに、スラックスを着ていた。明らかに仕事から帰ってきて、そのまま寝てしまったといった様子だ。
私は夢でも見ているのだろうか?夢にしては彼の姿は鮮明だ。
彼の顔をじっと見つめてみたが、今までに見た覚えも、会った覚えもない顔だった。
私は今の状況にだいぶ慣れてきていた。彼に向かって、片手を伸ばす。
指先で頬に触れると、確かに人の肌の感触が伝わった。
彼は今ここにいる。
何度か触っていると、彼が身じろぎした。私は慌てて手を外す。
大きく身じろぎした後、彼が両目を開けた。ぼんやりと、天井を見つめている。すぐ隣にいる私に気づく様子はない。
口がハクハクとわずかに動いた後、その場に起き上がった。
私は彼にぶつからないように大きく距離を取った。
彼は私に気づくことなく、リビングから玄関の方向に歩いていく。玄関に行く手前で左に折れて、彼の姿は見えなくなった。
トイレかお風呂か、別の部屋に行ったものと思われた。
私はその場で大きく息を吐いた。
彼に気づかれないように息を殺していたらしかった。一旦、閉じていた左目を開いた。
「疲れた。。」
先ほどまで泣いていたのに、涙はもう出なくなっていた。
きっと、不思議な現象に上書きされてしまったのだろうと思った。
それから、一か月。
その間、自宅で何度も片目を瞑って、彼の姿を観察した。その結果、分かったことがいくつかある。
片耳を抑えると、彼の声を聞くことができるということ。片手であれば、彼に触れることができるということ。だが、共に片目を瞑って、彼の姿が見えている状況に限られるということ。
彼が起きている時に、その腕に触ってみたら、彼の視線がすぐそこに向いた。
つまり、彼には触られている感覚があるということになる。でも、私の姿は見えないから、彼はその後首を捻っている。
また、自宅以外では片目を瞑っても彼の姿は見えない。自宅限定だ。
彼の姿が見られるのは、水曜、または土日のどちらかは休みらしく、ほぼ一日中見られる。私と同じような勤務形態なのだろう。そして、それ以外の日は夜遅くでないと、その姿は見られない。つまり、仕事がある日は帰りが遅い。
家に訪ねてくる人は皆無だった。リビングから玄関らしき方角に足を向けた後、戻ってくる時は大抵何か持っていることが多かったから、多分宅急便だろう。私には何を持っているのかは見えないけど。
ただ、自宅で一人でいる時に、あまり声は出さないよねってことで、彼のことを詳しく知るまでには至らなかった。電話をしている様子もなかったし。
私は彼と会話を交わしたこともないのに、すっかり同居人のように感じていた。少なくとも寂しさは感じなかった。
そして、一か月ほどたったある日。
私は自宅に帰って、既にシャワーも済ませ、リビングでくつろいでいた。
そろそろ彼も帰ってくる頃だろうと思い、片目を瞑ってみると、彼はすぐ側にいて、バックの中を漁っている。
何か取り出そうとしているらしい。様子を伺うと、彼は目薬を取り出した。
私はその場に正座して、自分の目を指差しながら、彼の方を見上げた。
No.3に続く