【短編小説】この世界は全て塗りつぶされてしまうだろう。
朝起きて、まずは部屋の東に向いている窓にかかったカーテンを開く。目の前の曇りガラス越しでも、朝日の日差しを感じる。
その後、窓を開けて、外の新鮮な空気を取り込む。
目を閉じて、外の空気を大きく吸った後、僕の視界に飛び込んできたものは、色とりどりに塗りつぶされた景色だった。
また、範囲が広がってきてるかも。
長い間見ていても、今の時間では塗りつぶし範囲は広がらない。僕は元のように窓を閉じ、朝の支度をはじめた。
着替えて、朝食を食べ、念のためバッグの中を確認する。
まぁ、忘れ物はないだろう。毎日持っていくものはそれほど変わらない。
バッグを持って、家を出て、駐輪場に止めてある自転車に乗って、僕は大学に向かった。
「ねぇ、今日は夕飯一緒できるよ。」
「そう?」
講義が終わった後、隣に座っていた真澄がそう言って、こちらに笑顔を見せた。
僕は、同級生の真澄と付き合って、もう一年くらいになるが、このところはお互いバイトとかで忙しく、大学の外では週に1、2度会うかくらいになっている。そろそろ別れるんじゃないかと薄々感じている。
だからといって、彼女を引き留めようという気が起きないのは、自分は他に気になる人がいるからだ。まだ何も行動には起こしていない。起こすなら、真澄と別れてからだと思っている。それでも、自分から別れを切り出さないのは、真澄といることをそれなりに心地いいと思っているから。いつまで続くかは未知数だ。
「泊まってくの?」
「うん。」
すると、帰りにどこかに寄って買い物をしていかないと、夕飯の材料がない。
「買い物しないとだけど、夕飯、何食べたい?」
「う~ん。生姜焼きとか?」
生姜焼き。
必要なのは、豚肉とまいたけ。めんつゆと蜂蜜、しょうがは家にあったはず。玉ねぎも買っておくか。
2人で、家で食べるときの夕食は、泊まる場所を提供する側が作る。今回は彼女が、自分の家に泊るので、夕食も僕が作る。
一人の時は、外で食べたり、家で作ったり、総菜を買って帰ったりと、結構まちまちで、買い物は家に帰る前に近くのスーバーに寄って済ませている。あまり、冷蔵庫に食材は常備していない。
真澄とスーパーに向かったところ、店頭で紫色に染まったスイカが安く売っていた。もうスイカも終わりの季節だが、半額近い値になっている。安くなっている理由は、紫に染まっているからだろう。きっと、しまい忘れたまま一夜経ってしまったのだ。スーパーの外壁も、紫と水色と黄緑に塗りつぶされている。
真澄に強請られて、そのスイカを一玉買うことになってしまった。消費できるか不安だ。
景色が色とりどりに塗りつぶされるようになったのは、ここ最近のことだ。
その仕組みはよく分からないが、きっかけは、あるゲームソフトの発売である。そのゲームは、主にチーム対抗戦で、手に持っている武器から出力されるペンキで、特定のエリアの景色を塗りつぶし、その塗りつぶした範囲の広さで勝ち負けがつく。
そのエリアに、本物そっくりの景色が出てくるというので、話題になっていた。残念ながら、僕はそのゲームをプレイしたことはない。そのゲームが発売されてからしばらくして、実際の景色が色とりどりに塗りつぶされるようになった。ただ、塗りつぶされたところを触ってみても、ペンキが上から塗られている質感はない。どちらかというと、ただ色だけが投影されているようだった。
塗りつぶされるのは、夜中の0時から2時くらいの間。どこのエリアが塗りつぶされるのかは分からず、その範囲は日に日に広がっている。塗りつぶされるのは、景色だけでなく、その時にその場に居た人間を含む生き物も、スイカのような物質も塗りつぶされる。ただし、洗ってしまえば、その着いた色は落ちる。
最初は色が着かないよう予防策を講じる者も多くいたが、ここ最近は体や服に着いてしまったら、洗えばいいと考えるようになり、建物も外壁洗浄したところで、直ぐにまた塗りつぶされることが分かり、放置されるようになった。塗りつぶされる時間帯に、窓を閉めていれば、室内が塗りつぶされることもない。人間の適応能力は凄まじい。
ゲームソフトの販売を禁ずる方向に向かうのかと思いきや、あまりの人気ぶりに消費者から反対の声が上がった。大きな実被害を受けていないから、いいのではないかという言い分だ。結局、簡単に洗うことができないもの(例えば窓を開いたままにしてしまって、室内が塗りつぶされてしまったとか)が被害を受けた場合は、ゲームソフトの作成・販売元の子会社である清掃会社が、無償で清掃作業を行うという形に落ち着いた。
塗りつぶされてしまった建物も、時間が経つと、徐々に色が薄くなっていくようだ。今はその上から別の色で塗りつぶされてしまっているから、分かりにくいが。雨では完全に落とせないが、色を薄くしているのかもしれない。ゲームに飽きて、プレイヤーが皆やらなくなったら、外壁は徐々に元の色を取り戻すのだろう。
僕が作った生姜焼きを食べた後、真澄が代わりに食器を洗うと言って、キッチンに向かった。その後ろ姿を見ていた僕は、彼女のうなじ部分が緑色に染まっていることに気づいた。
真澄は普段長い髪を下ろしているが、食事をする時に髪ゴムで一つにくくっていた。だから、今まで見えなかったうなじが顕わになったのだ。
うなじ部分が染まっているということは、夜の0時から2時くらいの間に、外にいたということになる。しかも、たまたま塗りつぶされたエリアに。さらに、長い髪をあげるか、くくるかして、うなじ部分が見える状態で。
僕はしばらく宙を見て、考えた後、食器を洗い終わった彼女に声をかけた。
「真澄。首の後ろ当たり、緑色に染まってるよ。」
彼女は、僕の言葉を聞いて、慌てたように首の後ろに手をやった。
「そう?」
「夜中に出かけたりしたの?」
「・・コンビニに何か買い物に行ったかも。」
「夜遅くに、女の子一人で買い物に行くのは危ないから、やめた方がいい。」
僕はそう言って、彼女の隣に立って、うなじの緑色に染まっている部分を、手でなぞった。彼女はそわそわ落ち着かない様子で、その場に立っている。
「自分からは見えないところだから、僕が洗ってあげるよ。」
「いい。大丈夫。」
「遠慮しなくていい。お風呂入っている時に、呼んでくれれば。」
僕の言葉に、彼女は途方に暮れたように、項垂れた。
先に風呂を済ませて、音楽を聴いていると、風呂場から彼女が呼ぶ声がした。風呂場の扉を開けると、彼女がこちらに背を向けて立っている。
「早く。確認して。」
「はいはい。」
彼女の濡れた髪を片手でまとめて、上に持ち上げた。彼女のうなじの緑色に染まった部分は、既に綺麗に落ちていた。僕がさっき手でなぞったから、彼女も手探りで洗うことができたんだろう。
僕は、今まで見えなかった緑に隠されていた部分を見て、笑い出しそうになった。
赤い鬱血痕。自分が付けた覚えのないもの。
これで僕は彼女に別れを切り出せる。
「まだ?」
「まだ残ってる。」
苛立ったような彼女の言葉に、僕はそう答えながら、そのキスマークに自分の唇を当てた。
終