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「詩」について。


いつまでもふたり遊んで暮らせるならね

「マジック・カーペット・ライド」byピチカート・ファイブ

 本来、詩とは形式如何に関わらず、その形式内で表現されなければならない。例えば、「俳句」は、五七五という「語数」ないし「音数」が絶対的でなければならないだろう。そうした堅固な形式があってこそ、「自由律俳句」=「自由詩」が存在し得るだろう。字余り、字足らずを含めて。
 「英語詩」に目を向けてみよう。古来より英語詩とは、「韻文詩」であった。「格」という厳格なルールがあり、ウィリアム・シェイクスピアのソネットもその例外ではない(英詩において「無韻詩」はあるが)。その意味で「詩」におけるモダニズムは捉えなければならないだろう。『荒地』しかり。
 話題を日本に戻す。冒頭に挙げた「詩」、より詳しく正確に記すなら、ピチカート・ファイブというグループ(運動体)の、何度目かのメンバーチェンジ後の、ある意味で安定期に入った、そんな頃の小西康陽氏による「歌詞」である。いうまでもないが、歌詞も「詩」である。
 偶然か必然か、正直知る術もないが、上記の「歌詞」は、だいたい七五調である。というか、「七五調」ともとれる部分を抜粋した。(ぜひ、本曲を聴いてみてください)
 小西氏の仕事は、その音楽、著作を通して一定の評価をされてこられて来ているし、私も遅ればせながら(1997年生まれ故、後追い世代である)、影響はかなり受けている。「受けている」というか、「食らった」感じで。パンチとかの打撃に近い。
 その上で、上の「詩」ほどのものはそうないのではないか。彼の仕事、という範疇を超え、J-POPという範疇においてさえ。
 賛辞はここまでにしておこう。とにかく、「日本語詩」には、「俳句」、「短歌」、その他の「自由詩」、「歌詞」、「パンチライン」などなど、そのような範疇=領域を超えた新しい視点。というか、可能性がまだまだ隠されているのではないか。というのが、このページの要旨である(疲れた)。

 ちなみに、これを書いている私は、詩人でもなければ、ミュージシャンでもない、ただの人なので、こうして文を書いています。
 皆さんも、好きな俳句だったり、歌詞だったり、フローだったり、、好きな言葉の列=詩があるでしょう。「好きな言葉の列」というか、詩とは、「作者に恣意的に選択された、ある決まりによって集められた言葉」と言った方が、私の今の気分です。
 「ある決まり」とは、「決まりがないという決まり」があること、つまり自由詩的なものも含まれます。
 話がややこしくなりそうなので笑、段落変えます。要するに、無秩序にも、「無秩序」という一つの「秩序」があると、(ややこしい)言えます。自由さの中にも、不自由さがあるように(ややこしい2)。

 こうして書いている今の私も、「今の私の気分」というフィルターというか、ここに書かれた言葉たちの必然性みたいなものは、あまり考えてないです。伝えたいことがあるとすれば、好きな言葉があるとしたら、それについて考えることは、決して無駄ではない。ということでしょうか。僕だって、いつだってピチカートファイブばかりを聞いてるわけじゃないですよ、そういう、熱中した一時期はあります。それは例えば、大学一年の頃なんですけどね。懐かしいなあ。まだ渋谷にレコファンがあった頃(2018年ごろ)ですよ!信じられます?
 だから、決して無駄じゃないんです。

 あなたの好きな言葉は何ですか?

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