日本における「才能教育」とは何を目指すのか?
2021年から日本における才能教育(特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する指導)に関するあり方を検討する動きが少しずつ始まっています。少し前からこの手の議論を進めようという動きがありましたが、現状は議論が全く進んでいない状態でした。
しかし、令和3(2021)年1月26日に公表された答申(「令和の日本型学校教育」の構築を目指して)で、個別最適な学びを実現しようという動きの一つとして改めて議論が進められていくことになり、2021年7月に以下の有識者会議が発足されました。
特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する学校における指導・支援の在り方等に関する有識者会議
個人的にはこの分野については興味があったもののインプットはおろそかになっており、今回、この有識者会議の資料を読むことで頭が整理されていきましたので、自らの言葉でまとめ直していきたいと思います。
1.日本は才能教育の途上国
有識者会議の資料では、「才能教育」というテーマにおいて日本は発展途上の段階にあるということがはっきりと記載されています。他国の取り組みを参考にするために、米・英・独・豪・フィンランド・オーストリア・デンマーク・中国・韓国・シンガポールを比較対象として選んでおり、これらの国に比べると制度的にもだいぶ遅れをとっているという状況のようです。
これらの国の中で、すでに「才能教育」に関連する法的な定義が示されている国が10カ国中7カ国あり(国によっては州単位)、全ての国である程度の制度が整備されています。つまり国として卓越した才能とはどのような状態であるかの定義がなされ、その才能に対してどのように向き合っていくのかが示されているということです。現在、日本は才能に関する法的定義がなく、「特定分野に特異な才能がある」はという文言は曖昧なものになっています。
この比較対象10カ国における制度は、アメリカの1958年スタート以外は、1980〜1990年代にスタートしています。アメリカが先進国であるということが分かると同時に、日本がいかに出遅れているかということもわかります。
実は、千葉大学をはじめとする9大学では、飛び級制度などを取り入れてはいましたが、その活用が広がっていないということも反省点として述べられています。
2.才能教育は、エリート教育ではない
「才能教育」とひとくちで言っても、さまざまなタイプに分けられます。しかし、そのタイプの中にエリート教育という概念は入っていません。調査対象となっていた国でも「エリート教育」と混同され、批判が集まっているという国が多くあったようです。「エリート教育は国家の指導者育成を目的とするもので、指導者たる人格育成についても実践するものである」と有識者の一人は述べています。
日本における「才能教育」の論点は、現在の学校教育において、特定分野で得意な才能を発揮し、通常の学校教育ではカバーしきれない児童・生徒に対してどのように対処をしていくのかという点で、特別支援が必要な生徒だけでなく、特定分野に特異な才能がある児童・生徒にも特別な配慮が必要であるとしています。そして、そのような児童・生徒に対する指導・支援のあり方について検討されていかなければ、個別最適な学びが実現できないというのが今回の議論の流れとなっています。
また、このような児童・生徒の個別最適な学びを適切に支援していくことができれば、結果としてグローバルで、イノベーティブな人材育成に繋がると考えられているようです。
想定する児童・生徒像の例え
単純な課題は苦手だが複雑で高度な活動が得意な児童生徒や,対人関係は上手ではないが想像力が豊かな児童生徒,読み書きに困難を抱えているが芸術的な表現が得意な児童生徒など,多様な特徴のある児童生徒が一定割合存在する。学校内外において,このような児童生徒を含め,あらゆる他者を価値のある存在として尊重する環境を築くことが重要である。
3.才能教育を進めていく上での困難
「才能教育は、個別最適な学びの実現のため」というと筆者個人の意見としてはとても聞こえがいいと感じています。誰もが学びに制限がかからず、才能を開花させることができれば、どんなに良いことかと考えているからです。しかし、政策として取り組んだり、リソースを当てていくという現実を考えていくとなかなか困難が多いと感じています。この困難が今後の論点になっていくのだと思いますが、これらについて非常にわかりやすくまとめている資料がありましたので、ご紹介したいと思います。
2018年度委託調査研究のご紹介
社会の持続的な発展を牽引する力の育成に関する調査研究
【論点1】才能教育を巡る 平等性 vs 卓越性 の議論
日本人が大好きな「平等」という定義についての議論になります。
A.全ての人が同じ内容・カリキュラム・サポートを受けられる=平等
B.全ての人がその人にあった学びを得られる=平等
Aが今まで考えられてきた平等だと感じています。その中にBの概念が入ってくる。A>Bという思想だったように感じています。基本的にはこのスタンスで良いとは思うのですが、場合によっては、B>Aであった方が助かる児童・生徒が表れる場合があります。このサポートが発展的な内容を学ばせるものであったり、先生たちの拘束時間が特定の児童・生徒にだけ偏るということにより、不平等と取られかねないという心配があります。人によってサポートの濃度が変わることは当たり前のことではありますが、目立ちすぎると不平等と取られてしまうようです。
実際に先に出した比較対象諸外国でも同じような議論がなされており、これらの施策に関わった研究者は「エリート思想がある」と批判をされたそうです。しかし、徐々に正しい考え方が浸透し、その批判もなくなっていたという事例もあるようです。
【論点2】才能を認められたいというニーズが子どもたちにあるのか?
才能教育を特別に施すということは、その才能を何らかの形で表出する必要があります。しかし、それが特質な存在として捉えられ、当人にとって不利益な事態(いじめの対象になるや目立ちたくないのに目立ってしまうなど)となる可能性があるのであれば、この取り組み事態は児童・生徒にとってニーズのないものになってしまいます。どのような設計が児童・生徒に最適な形での支援となるのかが論点となるように思います。
【論点3】多忙化する教員に引き受けられるか?
この論点は読んで字の如くですね。これはもはや教員の能力有無の議論ではないように感じています。ともすれば、教員の専門性すら超えた才能を発揮する可能性がある児童・生徒に対して一人の教員に対応させるということ事態に無理があるはずです。
専門的な機関を設けるかどうかについても一つの議論になる可能性がありますが、才能は特定の分野に収束するわけではないため、どのように多様な専門性を担保していくのか難しい議論になると考えられます。
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