余白を残すことの大切さ
画一的な教育の弊害
最近読んだ安宅和人著作の『シン・ニンホン』(2020、NewsPicksパブリッシング)に、未来を変える人材としては、既存の枠におさまらないが何かに突出した人が重要だという内容が記されていた。
この変化を生み出す“突出した人材”を育てるには、今の画一的な日本の教育では難しいのではと思う。受験や就職などのためか!?評価をしやすくするためなのか!?この辺は専門でないのでよく分からないが、学習指導要領が高校まで存在し、ほぼ同じカリキュラムでの教育を日本では行っている。
そうなると、なかなか何かに突出した人材を見出す(評価する⁉)のは難しいし、せっかくの各個人がもつ良さも丸く収められてしまいそうだ。そうした実感としては、最近、高校でも国際協力に関するキャリア講演などに呼んでいただけるのだが、そこで生徒からよく出てくるのは「国際協力に興味はあるけど、特段、何をしたいかが私にはないです・・・」という声だ。
国際協力に関心の有無には関係なく、何か没頭できるものがないのはもったいないし、今の教育システムや生徒の周囲の社会環境がそうさせてしまっているとしたら悲しいことだ。以前、「国際学部の学生ほどプラスαを」というブログ記事を書いたが、そこで述べた国際学部生の迷走あるあるの根本原因は、高校生の学部選択の時から始まっているということになるのかもしれない。
オンライン化で変化を生み出せるのか
そう感じていた中で新型コロナの影響で学校が閉鎖され、教育界はオンライン化への対応が突然迫られた。ちょうど2025年を目標年とした「GIGAスクール構想」(※構想内容全体は、今回の新型コロナでのオンライン対応事項とは少し異なるが、生徒一人ひとりにデバイスを与えるという点では、即時対応すべき内容となった)が文科省主導で今年から動き出していたが、5年というゆとりはなくなり各関係者が即時の対応をしないといけなくなってしまった。
このオンライン化の動きが教育、ひいては学生のキャリア形成にどう影響していくのか個人的な関心は高い。
特にオンライン化はやり方次第では、従来の画一的な教育から抜け出せる契機にもなるかもしれない。例えば、オンライン授業は動画配信となれば、コンテンツ自体を生徒が選択できたりするのも良いかもしれない。学校、教室という場所に縛られずに解放された生徒たちが、自分自身の関心・興味の学びに没頭することは楽しみだ♬
意外と自由に選択させるということは詰込み型の画一的な教育に比べて、個人の考えにそれぞれの“余白”ができて、それを活かすも殺すも自分自身になってくるが、突出した人材は今まで以上に生まれやすいかもしれない。
こうした未曾有の事態になったからこそ、建設的に新たな時代を生き抜くための改革を進めていきたい。