『ヴィンランド・サガ』について書くのが怖かった
まだ25巻までしか読んでないが、アニメ2期を見ていろいろ思うことがあったので勢いで書いた。
この記事にかかる時間 約六分
はじめに
あなたが過去に悪事を働いたとする。人を傷つけ、誰かを殺めた。何年か経って、そのことを非常に悔いたとしよう。許して貰いたいと思う。しかし、相手はもうこの世にいない。だから許してもらえる保証がない。
その時どう行動するか。罰を求めて安心したがる人もいるだろうし、今まで傷つけた数以上に調和を作り上げようとする人もいる。いろいろやり方はある。
この問いに対し『ヴィンランド・サガ』は一つの生き方を提示しているように見える。
トルフィンの生き様を持ち上げるか?
私は『ヴィンランド・サガ』について語ることが怖かった。熱くなりすぎて書くべきことを見失ってしまうと思ったからだ。
トールズの在り方(Thorsという名前と関係ありそうなThorとは裏腹に、非暴力を貫く)には強く心を打たれるし、未だに13巻は涙なしには読めない。脱線するが『ベルセルク』12巻と『ヴィンランド・サガ』13巻は人生で最も多く読み返した。
数々の金言は強く心に残る。「本当の戦士に剣などいらぬ」、「傷つけていい人間なんてどこにもいないんだ」。
けれども読み始めてから三年ぐらい経ってからようやく熱が冷めて来たというか、冷静に読めるようになってきたような気がする。そんなある日、私はこう思った。「ヴィンランド・サガ(の12巻あたりまで)って割とどうでも良い話じゃないか?」。我ながら酷い言いようだと思うが、本記事ではなぜこう思うようになったか、自分なりに言葉にしたい。
トルフィンのエゴ?
結論から言えば、こう考えるようになったのは、トルフィンの志しがエゴイズムに思えるからだ。
幼少期に父を殺されたトルフィンは復讐に身をゆだねヴァイキングの元で過ごすようになる。たくさん人を殺した。だいたいここまでが8巻の話。9巻からは通称「農場奴隷編」が始まる。廃人のようだったトルフィンは次第に後悔の念が増していく。「今までたくさん人を殺してきて、申し訳ないと思っている。ヴィンランドという土地で平和を築きたい」。
こうして見るとトルフィンは自分勝手な気がしなくもない。最初読んだ時はトルフィンなんかカッコイイなぁ、と思っていたが。
だってそうではないか。いくら「今まで奪ってきた以上に人々を救いたい」と思っていても、それは自分の内でしか完結しない。殺された人々はどう思っているか。分からない。トルフィンに反対するかもしれない。
敢えてトルフィンの人生を悪く説明すればこうなる。「僕は昔スゲー悪い奴だった。いじめたりした。成人した今思い返せば悪いと思っているし、今まで傷つけた以上に人助けしたい」。
これは別に褒め称えるべき話なんかではない。どうでもいい話、お前が勝手にやっていろという話だ。こうすれば必ず褒められるなんて思っちゃいけない。
だったら最初からそんなことするなという話である。なんか気持ち悪い。しかしその気持ち悪さは作品では巧妙にかき消されている。トルフィンの精神的目標であるトールズや、疑似父親であるアシェラッド、宣教師の「愛は差別である」という主張や、クヌートのヴァイキングを救うという志、そして「本当の戦士」とは何か、などの高尚そうで気高そうな題が次々と提示される。
また「農奴編」になってからは亡霊がのしかかるようになる。あれはトルフィンの罪悪感の比喩であろうが、あれもトルフィンの内だけの出来事である。悪く言えば妄想、強迫観念だ。
以上のような意味でエゴイズムなのだ。上手く言語化できなかったかもしれない。エゴイズムが悪いとは思わないが、メソメソ泣いて悪夢を見て、「今まで生きてきていいことなんて無かったよ」って言っている姿が気持ち悪いと思った。
トルフィンに殺された者たちはみんながみんな彼を応援するだろうか。「そんなに後悔すんなら最初からすんじゃねーよ」とか「戦争も奴隷もない国を作るなんて言う前に、俺の命を返せよ」と言うかもしれない。死者ではないがヒルドはこういう。「まずオレの家族を帰せ」と。
いさぎの良いエゴイズムゆえに
さて、散々言っているが依然『ヴィンランド・サガ』は好きな作品だ。そして手のひらを返すようだが、農業編の終わりあたりからトルフィンのことが好きになってくる。
私は序盤に「どうでも良い話じゃないか?」と書いたが、撤回する。農業編以降のための地ならしであったと考えれば意味がある。なぜか?そこを掘り下げると『ヴィンランド・サガ』の魅力が浮かび上がる。
私がここで書くべきことは二つある。まず、後悔が自分の内だけの現象であることを彼が理解するようになること。トルフィンの「許してもらえないかもしれない」というセリフはその証左だ。
依然エゴイズムのままだが、それを分かった上で「ヴィンランドに平和な国を作る」と決意するようになる。
もはや「許してもらいたい」という動機ではなく、「自分がそうしたいからそうする」というある種きっぱりとした、思い切りの良い行動原理を抱え込む。
これは大きな違いだ。つまり行動理由の矢印が他者から自分に向いていると見せかけていた自分→自分ではなく、純正な自分→自分ということ。
自分の行動の原因が常に自分であるような自発的な在り方を意識している。そこに「誤魔化し」はない。
具体的には「暴力とは金輪際決別する」、「いつも最初の手段を選べるようになりたい」という決心。彼は自身に行動原理を課し、そのもとで行動するよう強く自分に求める。それは常に上手くいくとは限らない。
暴力に頼ってしまうこともあるし、図らずも誰かを傷つけてしまうこともある。嗚呼、しかし高貴である哉、彼は不断の志しを持っている!理念は理念として抱えながら、その都度目の前の現実に合うように、個別具体的に考えて行動している。
欲望の赴くままでもなく、他人の眼差しが怖いからでもない。自分に課したルールのもと、自己を抑え、最適な行動の選択を目指す。
ここに人間らしい、おそらく人間に最も可能な要素があるのだ。だからこそ『ヴィンランド・サガ』はあれだけ心に残るのだ。
理想を抱き、現実にぶつかる誰もが経験する人間の姿を描いている。
ヒルドの存在
また、忘れてはいけないのはヒルドの存在だ。彼女の役割は、トルフィンの志に他人からの評価を与えることである。独りよがりの自己中心的になり兼ねないトルフィンの願望を批判的に捉え、判断する。
エイナルもいるが、実際にトルフィンから被害を受けたヒルドが抱く感覚のほうが説得力がある。もちろんヒルドが死者たち全員の思いを代弁しているわけではないが。
ヒルドがいなかったら自己満のマスタベ増し増しのどうでもいい話になっていただろう。
恒久平和のために
二つ目は、トルフィンの(というか作者の)問題意識である。凄惨な過去ゆえにトルフィンは、あの時代にあってはおそらく異常なほど(ヴァイキングの価値観がどんなだったかちゃんと調べられてないので、特に論拠があるわけではない)客観的に世界を眺めるようになった。
戦争、奴隷ばっかりの時代で、「なぜ戦争や奴隷が存在するのか」とか「普通に生きていたのになんで奴隷になって辛い思いをしなくちゃいけないんだ」と真面目に考えているが、そんなの「そうなんだから仕方ないだろう」となって終わりだろう。
客観視出来ているのは創作物だから、と言ってしまえばそこまでの話だが、むしろトルフィンを通して何を描こうとしているか考えたい。
すなわち「平和のための条件を考えることで、人々が傷つく状況を回避しようとしている」ように読める。ヴィンランドにおける共同体作りの下りがまさにそうではないか。
またトルフィンの問題意識はある程度の広さを持っている。「どうすれば生きたいと思える世界になるか」という普遍的な問いを含んでいる。世界中であれだけ人気があるのもむべなるかな。これは読むべき話である。
さいごに
今回は読んで頂きありがとうございます。こんな感じで固っ苦しい文章を挙げていこうと思うので良かったら覗いてみてくださいな。
反省として一夜の勢いで書き上げたのでいろいろボロがあると思う。あとでセリフの引用元や、画像を追加したい。
また、(私は必ず読むぐらい好きなのだが)漫画のカバー端に書いてある作者のひとことをもっと確認して、問題意識について調べたい。
この記事は私が計画している『ヴィンランド・サガ』考の1つ目である。次以降の流れは決まってはないが、キーワードとしてはドストエフスキー、マキャベリズム、老荘思想、「トルフィンvsクヌート」を考えている。
読書案内
『ヴィンランド・サガ』
『中動態の世界』
『人と思想 15 カント』