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今年(2018年)に45歳を迎えたことの意味

極めて個人的な内容ですが、気持ちの整理をしたく、記しておきます。

1.45歳を意識し始めた2年前

2年程前から、45歳と言う年齢を意識するようになりました。

きっかけは、務めている会社の「再就職支援制度」の対象になるのが45歳からという点。

1973年生まれの私は、今年2018年に45歳に到達します。

ああ遂に私も会社にとっては存在価値が微妙な年齢にそろそろ差し掛かりつつあるのかと意識をし始めました。

そしてもう一つが、その当時の社内の処遇。仕事の内容に意義や将来性を感じられず、また会社都合の理不尽な指示に大きなストレスを感じていた頃でした。

このままの状態で、会社の中で特に身につくものもなく歳を重ねていくことへの危機感。そして会社の歯車としてどんどん自分というものを搾取されながら働かされていく事になるのではと言う恐怖感。

まだ当時は漠然とはしていたものの、そんな感覚を抱く中で、何か変えていかなければ、そして中長期的な目線でキャリアというものを真剣に考えなければと思い始めました。

いずれ誰の身にも訪れる定年退職、老後、そして死…。

そう考えた時、自分の中で60歳で引退する人生なんて、とてもイメージがつきませんでした。

60歳を過ぎても活き活きと働き続ける。それが活き活きと充実した人生を贈ることに繋がるんだという感覚がありました。

その実現の為には、今の仕事の延長だけでなく、何かしら身につけた方が良さそうだ。

定年を迎えても、会社の看板がなくとも生きていける(働いていける)なんらかの強み・武器をを持ち合わせておいた方が良さそうだ。

そんな事を思い始めて、最初に取り組んだのが、会社をスピンアウトしていった先輩社員の方々とお会いし、話を聞く事でした。

2.見つけた社外の「場」

まず話を伺ったのは、若い頃にお世話になった上司や諸先輩方。何故か私が尊敬する元上司や諸先輩方は、50歳を過ぎてから会社を辞められ独立された方ばかりでした。

辞めたきっかけは様々でしたが、一番印象的だったのはある方の以下の発言でした。

「部長職にさせてもらって、それなりの給料を貰ってはいたけれど、あるとき考えた。このままこの会社でこのポジションにい続けたとして、自分にいったい何が残るのかと。社内の調整能力ばかり身についたところで何になるのかと。」

つまりは、それなりのポジションと報酬を得ているものの、会社の歯車として埋もれたまま社会人生活を終える事を望まなかった、そしてそのためにより自分自身を活かせる(であろう)環境にあえて身を投じた、という事でした。

この話を聞いて、益々、何らかの強み・武器を身につけなければと言う思いに駆られました。

とは言え、自分には何ができるのか。
そして、何をすべきなのか。

すぐには見つかりそうもないこの問いに、焦っても仕方がないと自分に言い聞かせると同時に、社内に閉じこもって悶々としていても解は見つからないだろうなと思い、もっと幅広く社外の声を聞いてみようと活動を始めました。

活動を始めて知ったこと。それは、会社の外には沢山の学びの機会に溢れていると言うこと。

決して売り込み目的ではないセミナーやワークショップ、勉強会などのイベントが沢山ありました。

有料のものもありますが、1,000円〜3,000円程度で負担となる金額では無い。

そして、そう言ったところへ参加してくる人達は、目的の差こそあれ、現状に対して大きな問題意識を持たれている人達ばかりでした。

そして何よりオープンマインドで参加者同士をお互い尊重し合うため、安心して議論に参加出来る「場」なんだと気づきました。

そしてそう言った「場」を通じて、ありがたいことに沢山のご縁にも恵まれました。

沢山の社外の人たちとの対話を通じて見えてきたのは、同じような悩みを抱えている人たちが世の中には沢山いるんだなと言うこと、そして決して自分だけが抱えている特殊な悩みではないんだなと言うことです。

私なんかよりももっと壮絶な体験をされてらっしゃる方もいるし、そんな辛い経験を乗り越え、新たな自分の道を見つけて逞しく歩んでらっしゃる方もいる。

そんな方々との対話を通じて、これまで社内で抱えていた孤独感から解放されるのと同時に、大いなる勇気をもらいました。

焦ることはない、これまでの経験を活かし、自分なりの道をじっくりと選んで行けば良いと。

とは言え、社に戻ると理不尽な指示命令が雨あられのように降り注いでくる。

そんな悶々とした状況ながらも「場」に顔を出し、沢山の方と対話をし、合わせて本も読みながら、自分の思いを整理していきました。

そんな活動の中、社内の別部署の方とのご縁もあり、少しずつ社内の気の合う仲間も増えていきました。

3.発想が変わり、気持ちの整理がついてきた

そんな活動を通じて、徐々に自分の発想も変わっていきました。

自分に何が出来るのか、何をすべきか、という発想から、どう働きたいのか、そしてどう生きたいのか、という発想に。

そして更には、自分に与えられたこの命を何に使うのか、と自分に問うようになりました。

これは「夜と霧」で知られるヴィクトール・フランクルの考え方に影響を受けたものです。

私に与えられた人生の使命(ミッション)とは…

加えて、「人生に起こること全てに深い意味がある」と言う発想でこれまでの人生を振り返ると、様々な出来事、特に辛く苦しかった出来事にこそ、それぞれ深い意味があったと思えるようになりました。

そして、その意味を考えると、あたかも一つの到達点に向かって導かれているような、そしてその到達点の存在を私自身に知らしめる為に起こった出来事のように思えてくるのです。

※ そんな発想を持つようになったのは、田坂広志さんの著者、「すべては導かれている」を読んだ影響が大きいです。

すると、ひとつの仮説が成り立ちました。

そしてその仮説は、きっと今の私にこそ出来ることなのかもしれないと感じるようにもなってきました。

それは、決して会社の今の仕事の延長線にあるものではありませんでした。

そんな感覚を持ち始めたとき、区切りの日にまたひとつの出来事が起こります。

4.誕生日に起きた出来事

記念すべき45歳の誕生日、正にその日に仕事上のある事件が起きました。

結果、療養の名目でしばらくの休暇をもらう事になります。

組織の問題として訴えたかった事が、巡り巡って最終的には私個人の問題として捉えられ、出社後待っていた結論は、管理職ポジションを解かれると言う結論でした。

ただしかし、先程述べたように、この出来方もきっと私にとっては深い意味がある、そう捉えることで気持ちを乱すことなく何とか過ごせています。

実際、休暇の間、必死に励まし支えてくれた仲間がいました。これは本当にありがたかった。(心より感謝)

加えて、この組織がどんな組織なのか、深く考察するきっかけとなり、何が問題なのかが良く分かりました。

そんな背景から、「異常が長く続くと異常があたかも正常に見える。異常と比較すると正常があたかも異常に見える。」の投稿に至っています。

そして、捨てる神あれば拾う神あり、です。

こんな私に声をかけてくれる方が現れました。

本当にありがたいことでした。

まだまだこれから時を経るごとに、色々な事が分かってくるのだと思います。

いつか未来の自分が、その人生を振り返ったとき、あの時のあの経験があるからこそ今の自分があると言えるよう、決して腐らず前向きに生きていきます。

自分に嘘をつかずに正直に生きていきます。

そして、また新たな気づきがあれば、ここにアップしたいと思います。

5.おまけ

◆QUEENの映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見ました。フレディ・マーキュリーが亡くなったのは45歳。加えてQUEENがデビューしたのが1973年、今年45周年だそうです。

◆ある方のお勧めでミヒャエルエンデの「モモ」を読みました。時間泥棒にかなりの時間を盗まれていた事に気がつきました。この本が書かれたのが1973年、45年前です。

◆ドラッカーの著書「プロフェッショナルの条件」にこう書かれていました。

『今日、中年の危機がよく話題になる。45歳ともなれば、全盛期に達したことを知る。同じ種類のことを20年も続けていれば、仕事はお手のものである。学ぶべきことはさしてない。仕事に心躍ることはない。(中略)
しかし、知識労働者には、いつになっても終わりがない。文句は言っても、いつまでも働きたい。とはいえ、30の時には心躍った仕事も、50ともなれば退屈する。したがって、第二の人生を設計することが必要になる。』

45歳は私にとって、とても大きな意味のある歳になりそうです。

長くなりましたが以上です。 

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