いつから日本企業は「マネジメント」を手放してしまったのだろう。
日本では「マネジメント」は「管理」と訳されています。また、マネジメントのポストも「管理職」と呼ばれるのが一般的です。
よく言われるように、マネジメントの本質は管理する事ではありません。でも実態はその訳語の通り、部下の行動を管理し、指示統制で動かしているスタイルが横行しています。
自組織も含め、日本企業にはなぜ本質的な「マネジメント」の思想がこれほどまでに根付かないのだろうと嘆いてましたが、それは私が知らないだけで、従来はマネジメントがしっかりと機能していた時代があったようです。
教えてくれたのはドラッカーさん。
ドラッカーの著書のうち、「すでに起こった未来」で、このように言っています。
“マネジメントが経済と社会の発展をもたらす。経済と社会の発展はマネジメントの結果である。発展途上国など存在しない。あるのはマネジメント途上国である。
一四〇年前の日本は、あらゆる尺度から見て途上国だった。しかし、日本は優れたマネジメントを生み出した。日本の成功は、マネジメントが原動力であり、経済発展はその結果であることを示した。他の国の経験もこれを裏づけている。資金しかなかったところに、経済発展は見られなかった。マネジメントの力によって人間のエネルギーを結集したところでのみ、急速な経済発展を見ることができた。
経済発展は、経済的な富ではなく、人間のエネルギーによってもたらされる。人間のエネルギーを生み出し、その方向づけを行なうものがマネジメントである。” (P.F.ドラッカー『すでに起こった未来』より)
この本が日本で出版されたのは1994年ですが、この文脈が記されている章は1969年に行われた講演向けの論文が元となっています。(更に正確には、上記訳文は「ドラッカー365の金言」からものです。)
日本企業が世界を席巻し、「日本的経営」と評価されていた時代。年功制、終身雇用などの制度を軸として、社員を退社まで責任持って面倒を見る家族的経営が一体感を醸成し、価値ある成果を生み出し続けていた。その仕組みを作りあげ、人間のエネルギーを生み出してきたのが「日本の優れたマネジメント」である。ドラッカーさんはそう評価をしているのだろうと私なりに解釈をしました。
そして何より、経営者の目線は、社会をよりよくする(社会に貢献をする)方向に向いていたのだろうと思います。
日本が高度成長を実現できたのは人口の劇的な伸びがあった事が大きな要因だと考えがちで私もそう思っていましたが、それよりも、その市場環境に適応した制度や経営スタイルを生み出したことが本質的な要因なのでしょう。
バブルが崩壊し、人口も今や減少の方向に向かっているにも関わらず、以前通用していた経営スタイルから脱却できなかった。そして苦し紛れに手を出してしまった成果主義などのアメリカ的経営が本質を見失わさせ、いつしか数字的目標で部下を追い詰める「管理」中心のスタイルを生み出してしまったのでしょうか。
そしてその歪みが、いよいよ修正の効かない形となり腐敗した形で表面化してきたのが、ここ数年で世を賑わせる大企業の不正行為なのだと思います。
“発展途上国など存在しない。あるのはマネジメント途上国である。”
あまりにも「マネジメント」の本質からかけ離れてしまっているそれら企業の愚行の数々。そこにはドラッカーが大切にする「真摯さ」のかけらも感じません。残念ながら日本はマネジメント途上国に戻ってしまったと評されてもおかしくないでしょう。
今の日本を見たら、ドラッカーさんきっと嘆くだろうなぁと思います。
この国に、この国の企業に、優れたマネジメントを再び蘇らせるためには何をしたら良いのか。
マネジメント不毛の地にマネジメントを持ち込むことの難しさを身を持って痛感しているがために、真剣に考え込んでしまいます。