ダンジョン飯」読了/「ブッダという男」読了:無我である自分がどのように輪廻転生するのか
12月18日(月)晴れ
今朝は早い時間から母を松本の病院に連れていくので早く起きたのだが、というか昨日は早めに寝ようと思って少しお酒を飲んで10時前に寝たのだが、1時半頃に目が覚めてしまい、そのあとは布団の中でうつらうつらしながら4時までは横になっていた。最低気温の予想はかなり低くてマイナス6度と出ているが、今の所はマイナス2.2度。昨日も最低気温は8時過ぎだったし、これから下がるということだろうか。作業場の水道が凍るといけないので水を抜いてきたり、そろそろ厳寒期の準備もいろいろ必要になってきた感じだ。
昨日は「ブッダという男」を読了し、その後で「ダンジョン飯」も最後まで読んだ。「ダンジョン飯」の展開がなんとなくよくわかってなかったところがあったので12巻を読み返してみたらあまり記憶がなく、一度初めの方から読み直した方が良いかなと思った。昨日も書いたが、「食べる」という地に足がついた行為が全てを解決する、というある種気持ちの良い思想が徹底しているところが良いなと思ったので、やはり注目すべき作品だなと思ったのだった。
「ブッダという男」は読了したのだが、読み終えてから考えていると逆にわからないところが出てくる。大事なのは「無我説」と「縁起説」だということは強調されていたのだけど、無我である自分が業により輪廻転生して苦しむのでそれから解放されるためには無明を断ち、智慧によって業が生まれることを断ち、一方では業が苦を生むことは智慧による正しい生活で業の活性化を防げるので、解脱を得ることができる、というのがこの本の主張だったと思う。
それはそれでわかったのだが、「無我である自分」とは何かというところが難しいなと思った。「自分」というのはその他の全てのものと同じく縁起によって成り立っているもので、実体はない。自分を成り立たせている要素は「色、受、想、行、識」の五蘊であって、色は物質的なもの、後の四つは精神作用だが、自分はそのように仮に成り立っているものなので、死んだらそれらが分解し、ただそれらには業(カルマ)がついているので輪廻から逃れることができず、再びこの世に生きて苦しむものとして再生する、ということだと思うのだけど、五つの要素のそれぞれが無常で苦の業がついているとしても、色は滅びるとして「色、受、想、行、識」の精神作用は同じ結びつきのものが再び「色」を得て転生するのか、それとも全てバラバラになってランダムに組み合わさって再生するのか、などがよくわからなかった。
自分はイメージとしては死ぬということはそれらがバラバラになることだから、それらが転生してもそれぞれの業はあっても前世とは要素がバラバラになっているので同じ実体はない、つまり「Aさんの前世はBさん」というようなことは言えないような気がしたのだが、仏伝などにはブッダの過去世として他の人間が示されているわけで、その辺をどう解釈すればいいのかなと思ったのだった。
まあ多分この辺は自分のイメージの仕方が違うのではないかとは思うのだが、またいろいろ読む機会があったら考えたいと思ったのだった。
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