身体は動く/キッシンジャーの外交思想とウィーン会議のカールスレー

3月7日(木)曇り

寒いことは寒いのだが、雲が出ていてスッキリと放射冷却できないせいか、最低気温の予想がマイナス4度くらいだったのに現在のところマイナス1.4度。暖かいというわけではないが心底寒くはないという感じで、やはり寒いとは言っても春の余寒だということなんだろう。雪は残ってはいるが道の目立つところにはない。木の上の雪はまだ融けていないので重みが心配だが、今日の晴れの予報で最高気温は7度の予想なので、それなりには融けるだろう。

昨日は午前中松本の整体に出かける。高速は塩嶺トンネルを出たあたりでかなり雪混じりの霧になっていて見通しが悪かったが、そういうこともあって空いていた。した道も大体スムーズだったので、念のために早めに出たのだけれどもそのまま早めについた。腹の具合はどうかという指摘を受けたのだがあまり自覚している違和感はなかったのだけど、今朝になって胃のあたりにもたれみたいなものを感じたので忙しくて気が付かなかっただけかなという気はしてきた。

いろいろとやることがあってとりあえず思いつくことを書き、できそうなことから片付けるという感じでやっているが、全体的なことを含めてやったり考えたりしていきたい。

今朝は考えはあまり進んではいないが洋服を少し片付けたり資源ごみを出しに行ったりいろいろ動く面ではやっている、というか体が動いている感じがする。考えることと動くことと書くことと、バランスも大事だなと思う。


昨日Twitterを見ていて先日100歳で亡くなったキッシンジャー元米国務長官についての記事を見つけ、読んでいて面白かったので少し書いておきたい。

https://roles.rcast.u-tokyo.ac.jp/uploads/publication/file/73/publication.pdf

キッシンジャーという人を一言で言えば、アメリカの国益を最優先に考えて政策を打ち、時には人道的とは言えない方向性での対処すら行う「リアリズム」の政策立案家であり政治家であること、大国間の勢力バランスを重視する勢力均衡論者であり、その間にある中小国家の困難には大した意を用いない傾向が見られたこと、などが特徴だったと言えるのだということを、この論考を読んで改めて思った。

彼が補佐官や国務長官を務めたのはニクソン政権(1969-74)とフォード政権(1974-77)なので、この期間に彼が対処した歴史的事件はベトナム戦争、米中国交回復、米ソデタント、第4次中東戦争など長期低落傾向のアメリカにおいて、最大の敵であるソ連といかに渡り合うかというテーマのもとに動いた、典型的な冷戦期の政治家ということになるだろう。

キッシンジャーは学者としての側面もあり、彼の著書「外交」はさまざまな外交家を取り上げているようだ。名前が上がっているのはカールスレー、メッテルニヒ、ビスマルク、セオドア・ルーズベルトなどである。

この中では高校世界史的にはカールスレーが一番無名だが、↓の解説がカールスレーの外交の意味をわかりやすく説明している。ウィーン会議の立役者としてはメッテルニヒやアレクサンドル1世が目立つが、ナポレオンを決定的に破ったのはイギリスの力が最重要であったわけで、ヨーロッパの他国間外交において初めてイギリスが主役に躍り出たと言える舞台であったわけだ。

「ウィーン会議」といえば「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたように「なかなか決まらない」イメージがあるが、最初の国際会議とされるウェストファリア会議(1648)以降、スペイン継承戦争後のユトレヒト会議(1713-14)が2年かかったのに比べればウィーン会議(1814-15)は14ヶ月で終わったから(まあナポレオンのエルバ島脱出というアクシデントはあったにせよ)かなり早かったということらしい。日本が戦争当事国として初めて参加した本格的な国際会議はパリ講和会議(1919)だと思うが、これは6ヶ月で終わっている。

こうした会議外交はカールスレーが目指した「どの国も他国に脅威となるパワーを持たない」という勢力均衡原則が重要なわけで、キッシンジャーは冷戦期の政治家として同じようにベトナム戦争の苦戦により米ソのバランスがアメリカ不利になってきた情勢を見てソ連と対立する共産主義国である中国を外交の舞台に引っ張り上げたわけである。しかし中国を外交舞台に乗せたことでアメリカのベトナム撤退後に中越戦争を招き、またベトナム戦争末期にラオスやカンボジアを空爆して、中国に支持されたポルポトの政権獲得と虐殺などの負の影響も招いたことはある種のパンドラの箱を開けた面もあったという指摘があるということのようだ。

キッシンジャーは「ドミノ理論」によって共産化を危惧したことによるケネディ・ジョンソン政権のインドシナ介入を批判し、一方では「悪の帝国」に対立する「善の帝国」としてアメリカを動かしたレーガンを冷戦勝利に導いた存在として評価はしている。まあ結果論の後出しジャンケンという気はしなくはないが、現実論ではなく理想論で動く政治であっても結果を出せばよしとする、という現実主義だと言えば言えるのだろう。

カールスレーの勢力均衡政策でうまくいかなかったのがプロイセンの強化とポーランドのロシア支配で、この二つはロシア牽制の意味があるわけだが、19世紀後半になってフランスよりもロシアがイギリスの脅威になるようになると、その失敗の意味が大きくなってきた、という指摘がある。

同様にキッシンジャーが中国を贔屓し台湾問題を意図的に小さく考えようとしたことが、今中国との対立がアメリカの主要なテーマになってきていることを考えると、「リアルポリティークの賞味期限」というものを考えざるを得ない。

キッシンジャーは「違法なこと、これ は直ちに行う。違憲なことは、もう少し時間がかかる。」と言ったそうだが、必要とあれば手段を選ばない姿勢には当然ながら批判はあるし、どんな手段を使ったところで外交も軍事も限界はあるわけだからその辺りのところも考えていかなければいけないだろうなとは思う。

キッシンジャーはウクライナ戦争に対してはロシアの領土的野心をある程度認める「現実的な提案」を行っていたし、ガザ問題に関しては西岸地区のヨルダンへの、ガザ地区のエジプトへの併合を主張し「二国家解決を放棄せよ」「イスラエルに対する強力な支持を示せ」と提案したり、また中国に対しても「アメリカは和解すべきだ」と主張するなど、相変わらず勢力均衡的な視点からの提案を行なっていた。民主党政権のうちはそうした方向性は出てこないだろうが、もしトランプが政権に復帰したらこうした方向の提案も復活する可能性はあるのだろうなという気はする。

現実的な視点で言えばガザのハマスはエジプトの反政府勢力ムスリム同胞団の系統なのでエジプトはその受け入れを拒否するだろうし、ヨルダンにしても現在でもパレスチナ人が多数派なのにこれ以上多くのパレスチナ人を抱え込みたくないという考えはあるだろうから、まず両国が受け入れないのではないかという気はする。

彼の主張はそういう意味ではロシア・中国に適当に飴を与えてアメリカと協調させた方がいいし、イスラエルが良ければパレスチナはどうでもいいという考えが感じられるから、当然ながら批判は多いだろう。

彼が現場を離れた後の冷戦終結後や911後にどういう発言をしていたかなどはよく知らないので彼の考え方の全体がわかるわけではないけれども、こういう考え方で世界に臨んでいた外交家がいたことは知っておいた方が良いと読んでいて思った。

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kous37
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