日本の左翼思想は賞味期限切れではないのか(2):戦後保守の動向と「与えられた平和を取り上げられた」ルサンチマンとしての平和運動
9月7日(土)晴れ
今朝は寝ている間は秋用の布団だと少し暑かったが、夜明けになると気温が下がってちょうどいいくらいになった。最低気温は19.7度なのでそんなに低いわけでもないのだが、秋だなというのは実感する。まあ今年の夏が暑すぎたから、ということなのかもしれない。
4時過ぎに起きてしまったが、まだ全然暗い。5時をすぎてもまだ暗くて、それでも15分くらいには家を出てガソリンを入れに行った。走っている最中にだんだん明るくなってくる感じ。丘の上のデイリーで塩パンを買って帰って、帰着したら6時を少し回っていた。
昨日は「日本の左翼思想は賞味期限切れではないか(1)」と題して書いたのだが、元になるのはこちらのツイート。
で、昨日は左翼思想の起源みたいな話をフランス革命のところから少し書いたのだけど、左翼思想というのは当時から社会的立場の弱い人たちの、特に労働者の運動思想であったのだが、世界的にも68年の頃から労働問題よりマイノリティの問題に対する戦いに変化していったこと、それは特にアメリカの公民権運動の影響が強かったのではないかということを書いた。
それではなぜ「日本の左翼思想」が他の国と違うものになったのかということなのだが、その理由は敗戦とその後のGHQによる強制的な民主化にあった、ということを思うからである。だから私の言おうとすることは基本的には「与えられた(押し付けられた)民主主義」論の方向性なのだが、もちろん日本にも戦前から、というか明治以来、自由民権運動以来の運動がそれなりに成果をあげ、男子普通選挙制その他を実現したということは重要であることは間違いない。
戦後改革のGHQ側の狙いはいくつかあるが、それを言葉にして言えば「五大改革指令」と憲法改正における「マッカーサー三原則」ということになるだろう。
五大改革司令は
1 憲法の自由主義化および女性の解放(婦人参政権の付与)
2 労働組合の奨励
3 教育の自由主義化
4 圧制的諸制度の撤廃(秘密警察などの廃止)
5 経済の民主化
ということだが、これらに基づいて財閥解体や農地改革(経済民主化)が行われ、圧政的な諸制度撤廃の名の下に特高警察や憲兵などの諸制度は廃止され、治安維持法などが廃止された。
これらは実際には戦後の混乱をもたらし、警察力の弱さを招いたわけだが、占領軍側は国内治安の維持には積極的には関わらず、警察力の弱体化の危機感から右翼団体やヤクザ組織などが警察力の補完として事実上働いたため、より混乱を深めたところもある。当然ながら彼らは勢力を伸張させ、独立回復後は暴力団組織を弾圧する方向に動いたが、暴対法以降は逆に半グレや外国人犯罪組織の伸張が起こり、また戦後は同和団体や宗教団体、現在では外国人支援組織など警察が介入しにくい存在は残り続けることになった。これらは「民主化」の負の側面ではあるだろう。
マッカーサー三原則は
1 天皇が国家元首
2 国権の発動たる戦争を廃止
3 封建制度の廃止
ということなのだが、1は日本国家の安定のため、2は連合国軍による日本の永久的な武装解除、3は「日本の民主主義は12歳だ」と見たマッカーサーによる国制改革ということになるだろう。いずれにしても「日本は封建的勢力により戦争に至った」という見立てであり、スターリンの32年テーゼ(日本の国政は「天皇制=絶対主義」でありまずブルジョア革命が必要)の影響を強く受けているように思われる。
当時の日本国内左翼的にはこれはいわゆる「講座派=共産党主流」の視点であって、対立していた「労農派」の「明治維新はブルジョア革命であり次に必要なのは社会主義革命である」という「社会党協会派」の視点は事実上否定されたわけで、逆に言えばマッカーサーが共産党=スターリンの権威を高めた」ということは言えるのではないかと思う。
そして戦後の占領は1945年から1952年という異様な長期間に及んだ。その期間に極東軍事裁判=戦争犯罪裁判という前例のない「勝者による敗者断罪を正当化する「裁判」」が行われ、軍部を中心とした日本の「旧勢力」が断罪されると同時に「冷戦」が始まり、実際に朝鮮戦争という東西対立戦争が起こったために日本の占領責任者であるマッカーサー自身が戦争を指揮するという事態になり、原爆の使用を主張したことでトルーマンに解任されるという事態にまで及ぶ。サンフランシスコ講和条約には戦争当事国であるソ連や中国は参加せず、戦争状態が継続されることになるという異例の展開にもなった。
この占領期間に、日本政府の統制の効かない様々な存在が力を持ったりが、先に述べたような暴力団もまたそうだろう。そのほかにも強い力を持った労働組合や反政府的な教育を進める教職員組合、ソ連から資金援助を受ける左翼政党など、さまざまな潜在的な反政府的存在が残り、独立後の保守政権に「克服すべき多くの課題」が残ったわけである。戦後の保守政治はその意味で「米軍の占領によって取り上げられたものを取り戻す」ことが根底にあり続けたわけである。
ただ、占領軍が撤退し冷戦が激化すると、表立って彼らを保護する存在は無くなった。彼らの「正しさ」を保証してくれた米軍がいなくなると、「アメリカでは」「ソ連では」と外国を根拠に自らを正当化しなければならなくなり、それが「人民中国」や「今日のソ連邦」など社会主義国を理想化することで自らを正当化し日本の現状を批判する出羽守的な心情の起源となったのだろうと思われる。
一番典型的なのが平和主義思想だと思うのだが、戦後の敗戦の現実と戦中戦前の「軍の横暴」には多くの国民が腹を立てていたのも現実であり、また「横暴に振る舞ったのに勝てなかった」軍に対する侮りが多くの国民に生まれたのも事実で、戦後は旧軍人には辛い時期であったことは確かだろう。独立の回復とともに軍の恩給制度など生活面の援助は復活しても、軍と戦争に対する国民の否定的な感情が強く残ったことは間違い無いだろう。
つまり、敗戦により日本軍への信頼は失われ、軍と軍人に対する復讐的な感情が強まるとともに、「平和を与えてくれた」米軍に対する感謝という倒錯した感情が生まれ、軍人や国権主義的な議員が公職追放によって排除された国会において戦争放棄の憲法が成立した。「軍備の規定のない憲法はナンセンスだ」と批判したのは共産党の野坂参三であり、ある意味特異に現実感覚を持つ共産党の本領はこういうところには現れている。
いずれにしても「平和」は憲法により「与えられた(保守派にとっては押し付けられた)」ものであり、ある種の恵みであったわけである。
しかし左翼にとってその夢はすでに占領軍がいる間に裏切られたわけで、朝鮮戦争の勃発によりGHQは180度態度を変えて、「警察予備隊」の設置を日本政府に要求したわけである。左翼にとっては「与えられた平和」を「取り上げられた」ことになる。「逆コース」というルサンチマンに満ちた言葉は「与えられたはずなのに取り上げられた」という不平不満からきているのだろう。60年安保闘争にあれだけの国民的エネルギーが渦巻いたのは、やはりその思いが強かったのだろうと思う。
独立回復後の政局は一気に公職追放者が政治に復帰してきたために保守政党も保守化が進み、冷戦構造の激化とともに55体制の成立に進み、成立した自由民主党は「憲法改正」を党是とするようになった。
当時の保守政党の目指したものは「自主憲法制定」という名前の通り「自主・自立」にあり、特に権力維持にGHQを利用した吉田茂への反発もあって、ソ連や中国との国交回復などより対米自立を模索する動きが保守政権の中に生まれた。最終的には岸信介の安保改定により対米自立(沖縄の回復などを要求)と対米同盟の折衷的な路線が日本政府の基本路線になったわけだが、安全保障面での対米依存傾向は無くなったわけではないだろう。80年台から防衛費を増額し、またPKOに参加することで自由主義世界内部での国際的地位を高めるという方向性に進み、それは現在も続いているが、それは鳩山一郎の日ソ国交回復に続いて田中角栄が日中国交回復を行ったことが危険視されてロッキード事件を仕掛けられたこととも無縁ではないだろう。現在でもこの系統の政治家はいるが、「日本国家の自立」よりもロシアや中国との癒着の方に重点があるように感じられるのは残念である。
つまり多かれ少なかれ、日本の保守は「自立」を目指す方向性を持っているし持ってきた。それは逆に言えばアメリカに依存、つまりは従属しているという意識の現れではある。その従属を脱するためにアメリカに危険視されず、しかし国際的地位は高めるというバランス重視が日本の保守政党の外交の要諦になっているのが現状だろう。もちろんこれは満足すべき状態だと私は思わないけれども、現状やむを得ないと思うところは強い。
保守派の中には上にように対米依存傾向が強く、現在でも何がなんでもイスラエルを支持すべきだ、という日本国家の国際法重視の原則、つまり独立性を損なうような主張をする人たちがいて、その辺りは大変残念だと思う。
どうもまた長くなったので今日はとりあえずこれで更新しようと思う。左翼の問題というより戦後日本の保守政治の振り返りみたいになったが、私が歴史ばたけであるというのと左翼より実際には保守政治の方に関心があるということでそっちに引っ張られてしまった。
明日は完結編として「日本の左翼思想は賞味期限切れではないのか」(3)で本題の「日本の左翼」の問題について書こうと思う。