「近代の呪い」を読んで(4):近代のもたらした「寄与」と「呪い」。何を保守するのか。
渡辺京二「近代の呪い」読み終わった。ただ第4話「近代のふたつの呪い」とつけたり「大佛次郎のふたつの魂」のふたつがあるので、今日は第4話について書いてみたいと思う。
第4話は「近代のふたつの呪い」というテーマで、書名と最も関わりのある内容なのだけど、近代の良いところと問題点みたいなものを、普通考えられていることを相対化しながら重要なことについて指摘している、というスタイルで語っていて、この辺りの語りの面白さというのは学ぶべき点が多いなと思う。
ただ、知識が該博で示されている論点がそれぞれ面白いだけにちゃんと考え出すと結構キリがなくなってしまうところがあって、簡単に「まとめる」ことができないのも渡辺さんらしいところなんだろうなあと思ったり。
近代になって良かったこととして「自由・平等・人権」が一般に言われている、とした上でそれぞれの検討を行なっているわけだが、特に印象に残った話は一つは江戸時代の訴訟の話。
江戸時代は百姓町人が無権利状態だったかというと決してそんなことはなくて、むしろ恐らくは今よりはもっと盛んに「自らの権利のための闘争」に勤しんでいたことが語られている。大岡越前守の地方巧者(下級農政官僚)として活躍した田中丘隅の記録に百姓はすさまじきものであり、何かあるとすぐ公事(訴訟)・一揆(デモンストレーション)を行うとし、「百姓の公事は武士の軍戦なり」と書いているのだという。
岩波文庫にも入っている文化文政期の「世事見聞録」では些細なことでも訴え出ていたことが書かれているらしく、江戸時代中期には江戸には公事宿、訴訟のために江戸に出てきた百姓が泊まるための宿が二百軒もあり、書類の作成や助言など弁護士、というか代言人的な役割を担っていたのだという。これは面白いと思った。
また、身分制といっても固定されたものではなく、一応は支配階級であった武士にも御家人株を買うことで武士になった例が挙げられていて、勝海舟の曽祖父などが有名だが、勘定奉行や江戸町奉行になった根岸鎮衛の父も御家人株を買った百姓だった、ということが書かれている。
こうした身分上昇者の割合がどの程度だったのかはわからないが、フランスの法服貴族のように平民(ブルジョア)が貴族階級・統治者階級に成り上がった例も一定はあるわけで、身分と言っても絶対的なものではない、ということを強調されている。
この辺りのところは現代でも大事だなと思うのだが、やはり階級的流動性が強い方が社会の活力があるということなのだよな。百姓町人の出身でも何らかの手段で武士の仲間入りができたように、現代では例えば学歴を積み上げることで貧しい境遇から政治的指導者になることも可能なわけだから、そういうチャンネル、特に奨学金などのシステムを維持することは重要だと思う。
前近代でもそのように人権や平等がなかったといえばそういうことはない、という例としてこれらが挙げられているわけだけど、それでも近代になって圧倒的に良かったこととして挙げられるのが「衣食住における貧困を基本的に克服したこと」だとしていて、これは本当にそうだなと思う。個別具体的な問題はもちろん残っているし、特にここ10年余りはネカフェ難民などの問題が起こっているから完全というわけではないけれども、前近代の飢餓に比べれば違うことは確かだ。
しかしこのような近代においても二つの問題が残っていて、一つは国際間の経済競争の問題。日本が経済的に優位に立つということは自分自身の暮らしが豊かになることでもあり、国同士の争いが自分の生活に直結する以上、庶民までが他国に対抗意識を持ってしまい、国民国家の役割がさらに強化されてしまうというのを一つ目の「呪い」としてあげている。
まあそれはその通りで、またそれが国際間の移民の問題にもつながるわけだけど、私自身は国際間の移動が自由になる方向よりは祖国で十分自由に豊かに暮らしていけるように、つまりは国際間格差もできるだけ均してしていくように、先進国が協力していくことの方が重要ではないかと思っている。
もう一つの呪いは、「人間の作った世界」が全てだと思う傾向だ、ということで、これはとてもよくわかる。人間は自然の中で生きている存在であり、自然は人間に管理し切れるものではない。そして我々人間自身がいずれ死すべき存在であるにもかかわらず、その死も生も人間には完全にはコントロールできないのに、それが見失われているという問題だということだと思う。
「世界は人間によって作られたもの」「自然は人間が利用すべきもの」という傾向がどんどん強くなっているということは私自身も感じていて、「人間を知る」「社会を知る」「自然を知る」という方向ではなく、設計主義的・工学的・その方向への急進主義的な考え方がより強くなってきているように思う。
つまり世界の中で人間は夜郎自大的になってしまっているということだ。人間中心主義的に考えて人間が物理学的・生物学的基礎の上に立っていることを見落としている文系人や運動家は理系の人の笑い物にされがちだが、理系の人も技術で何でも解決できるという傾向があまり強くなりすぎると問題だと思うし、「死すべきものとしての人間」について考えるはずの文系の学問が「権威」や「神聖」「崇高」というものについて脱神話化を進めすぎて「敬意」「畏敬」「尊重」というものの意味が見失われていることが、現代においては大きな問題なのだと思う。
渡辺さんはそれらのことを「近代のもたらした寄与が呪いに転化するという一種のアイロニー」と表現しているけれども、まあどんなことでも良いことばかりではない、「一得あれば一失あり」なのだ、という平衡感覚が恐らくは重要なのだと思う。私が思う保守主義というのも、そういう平衡感覚に基づく部分が大きいと思う。
渡辺さんは慎ましやかに、現代における問題を指摘するところ、それに自分の思いを付け加えるところで抑えておられるが、どんなふうにしていけばこの先より世界は良くなるのか、そのあたりの渡辺さんなりの展望もお伺いしたいなあというふうには思った。
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