同調とか憑依とか/チェンソーマンとABARA

体調はだいぶ戻ってきた感じだ。それに、昨日甲野善紀さんのツイートを読んでいろいろ考えたのだが、やはりコロナに関して自分の本来のスタンスとは違っても世間に合わせようとしていたのだけど、どうも本体が乗っ取られたというか、世間のパルスに同調してしまっていたなあと思うところがあった。かといって実際の行動をそう大きく変えるわけではないのだが、考え方の身の置きどころみたいなものを変えた方がいいなあとは思った。体に怒っていたいろいろな異変もかなりその辺のある意味での精神的な変調に影響されていた部分があったなと思う。

世の中が変だからといってそれにあまり同調しない方がいいし、もともと世の中は変なのだから、自分の感覚でいいと感じる方に沿って生きた方が良くて、それを表面的には世の中に擦り合わせて生きていく、と考えた方がいいなと思う。ただ実際のところ、私はその種の同調能力というか変に憑依して(させて)しまうところが昔からあって、そういうものを感じたら常にはずしながら生きていった方がいいなと思った。

自分の仕事も少しずつ動き出してきたので、なるべく軌道に乗せながら、自分のセンスに沿った方向でやっていきたいと思う。

今朝は4時半ごろに目が覚めたが、このくらいがちょうどいい感じかな。セブンでこの地域では少し早めに出る月刊少年マガジンと週刊少年マガジンを買ったあと、国道を東南に走って茅野駅の西口を上川のほうに降りてから、そのまま上川に沿って上っていったのだが、公園大橋が開通していたのでそこを渡って、長峰から中央病院の横を抜けて神之原の方を一回りして粟沢で橋を渡って帰ってきた。

帰ってきて本棚を見たら昨日ツイッター上で話題になっていた弐瓶勉「ABARA」の新装版があったので一通り読んでみて、チェンソーマンの作者の藤本タツキさんのいう「邪悪なフリクリ、ポップなアバラ」という言葉についてまた考えてみた。チェンソーマンの主人公はデンジという、ポチタというチェンソーの悪魔に取り憑かれた少年なのだが、ABARAの主人公は駆動電次という黒奇居子(黒ガウナ)の男で、このガウナという概念も「シドニアの騎士」とは違うのだが、ある種化け物的な存在ではある。弐瓶さんの絵は骨格とか内臓のような描写が多く、それが一つの特徴だが、チェンソーマンではむしろ人形的な描写というか、その辺がポップな感じはする。あと人間とか悪魔の造形が可愛いというか、その辺が現代的ではあって、「カワイイ」もポップの一(いち)バリエーションだとしたら、ソユトコも含めてポップなんだろうなと思った。「フリクリ」はよくわからないので、とりあえずBDをアマゾンでポチた。


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kous37
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