バイデンの「外国嫌い発言」やLGBT絶対主義の背後にある「理性の暴走」に脅かされる「西側」と日本の現状/お茶の水・神保町散歩

5月6日(月・振替休日)晴れ

昨日は久しぶりにご飯を家で炊いた。4年ぶりくらいだろうと思う。コロナのあと、家に二泊以上するのがものすごく稀だったので、家でご飯を炊いても食べきれないから買ってきたもので済ませるようになっていたからだ。冷蔵庫も途中で一度壊れて新しい小さいのに買い直したので、あまり入らない。調整しながら使わないといけないなとか、久しぶりに家事というか食事のことをちゃんと考える。実家にいると何となく適当になるというか、どちらにしても自分でやるしかないのだけど、自宅の方がやる気になるのは自分の間尺に合わせて生活できるように自分がセットしてあるからだろう。

食器や調理用具を少し整理していたらコーヒーのネルドリップが出て来たり豆を挽くミルが出て来たりして、ああ、このくらいのことはちゃんとやろうとしていたんだよなということを思い出す。そういえばこういうことはもともとそんなに嫌いじゃないんだよなとか。集合住宅の台所規模だとそういう発想が動くのだが、実家の大きな台所だとあまりそう思わないのはなぜなんだろうと思う。

3時ごろ出かけて考えたけれどもまず丸の内の丸善に行き、エマニュエル・トッド「第三次世界大戦はもう始まっている」(文春新書、2022)を買った。池上さんとの対談本の方を主に読んでいるが、ぱらぱらと見た感じではこちらの方が元本で対談の方は発展形というかその後の現実の展開に合わせて表現を調整している感じがする。最近ネットで読んだインタビュー記事も基本はその方向だけれども、インタビュー記事の方がより突っ込んでいる部分も多くあるなとは思った。

そのあと東京駅に出て御茶ノ水まで行き、御茶ノ水橋口から出てさてどこに行こうかと交差点で考えて、ディスクユニオンのクラシック館に最近行ってないなと思い、まず行ってみた。いろいろ見たが買ったのはカザルス演奏のバッハの無伴奏チェロ組曲。帰ってから聴いてみるとこれはものすごくいいというほどでもなかったけど、コレクションしておく意味はあるかなという感じだった。外に出て少し水道橋の方に歩く。そう言えばこの辺はアテネフランセに通っていた時、また三楽病院に入院したり通院したりしていた時によく通ったということを思い出す。だいぶ変わってはいたけど、連休なのに人が少なくて、自分の中の東京を満喫した感じはある。

駿台予備校の隣を通り、神保町の方に歩くと先日閉館した山の上ホテルの横に出て、下に下ると錦華公園。隣は錦華小学校かと思ったら西神田・小川の両小学校と合併して今ではお茶の水小学校というらしい。千代田区の小学校もいろいろ変化している。靖国通りに出ると静かな裏通りとは違い、いつも来るときと雰囲気の違いを感じた。書泉グランデと東京堂書店をのぞいた後文房堂の喫茶室に行ったら窓際席が空いていたのでピスタチオのケーキとダージリンでお茶。いつものパターンではあるのだが、田舎から直でなく東京の自宅から行ったからか気持ちが落ち着くものがあった。主に池上さんとトッドの対談本を読んでいた。

手持ちもSuicaもお金が切れてきたのでセブンイレブンでお金をおろし、Suicaにもチャージする。家に帰る前にどこかで買い物したいなと思うが、神保町角の交差点のスーパーはなくなったしな・・・と思いながら、そういえば最近オープンした「作家が作ったシェア書店・ほんまる」があったなと思い、場所を調べてみると九段した方向なのでそれなら近くに成城石井があった、ということを思い出していってみた。近くに行ってみるとちょうど三崎町がお祭りで、お神輿が出ていた。いま町名を調べると多分西神田とか神保町になっている地域も含むのかなという感じなのだが、ちょうどほんまるの横にもはっぴを着た人たちがたむろしていて、ああそういう感じなんだなと思う。シェア書店というのはこれはいいなと思ったことがまだないのだけど、この店もまだこれからなんだろうなという感じではあった。

成城石井がすぐ近くだったので夜の買い物やお菓子など少し買って神保町の専大前の入り口から入り、半蔵門線と東西線を乗り継いで帰宅。電車の中でもずっとトッドを読んでいて、そういう意味では充実していた感じ。


トッドを読んでいてなんというかだんだん暗澹たる気持ちになってきたのだが、つまりいま世界で何が起こっているかということについて、特に西側世界で何が進行しつつあるのかということについて何というかおぼろげながら自分が思っていなかったというか、意識から外しがちだったことが本格進行しているということではないかと思い当たってきたのである。

これは「極端なフェミニズム」であるとか「道徳的なリベラリズム」、「LGBT絶対化思想」が西欧社会を席巻しつつあり、それが西側社会の分断を招いているし、世界の多くの国々はもっと保守的であって、より保守的なスタンスを取るプーチンのロシアがより多くの国から支持される現状になっている、というよくある指摘と言えばそうなのだが、その背後にあるものに私がようやく思い当った、と言っていいだろうか。

LGBT絶対主義というのは、性的少数者を差別しない、とか性的少数者の権利を保障する、というレベルではなく、「「性別という自然」を超克した生き方こそが「理性的な人間」の「自由な生き方」である」、という考え方が背後にあるのではないか、と思い当たったということである。これはツイッターでも月清さんのような以前からの性的少数者が問題視していたことで、「周辺的な存在として自由を認めよう」というのでなく、「LGBT=性別から解放された生き方」を「社会の中心に据えて社会を改革していこう」という考え方であり、この本の中でもトッドが消極的に批判している。つまり同意はできないが、西欧リベラル=理性中心主義社会に生きていると、強く否定しにくい主張であると認めているわけである。

これは最近のLGBT運動家のイヤに強気な態度にも表れているように、エマニュエル大使がプッシュしていて、アメリカのリベラル寡頭集団においてはすでにコンセンサスになっているものなのだと思うし、LGBT運動を批判する「トランスジェンダーになりたい少女たち」が日本の出版界で常軌を逸した排撃運動の対象になっていることからも説明がつくと思う。

また、性別と同様に国籍においても、「「国籍という(社会的)自然」を超克した生き方こそが「理性的な人間」の「自由な生き方」である」という考えがあり、これがエマニュエル大使の「グランドキャニオンから伊勢神宮まで、旅には国境などありません」という発言とか、バイデン大統領の「日本は中国やロシア、インドのように外国人嫌い(xenofobia)だ」といった発言に現れているのだと思う。

要は、「理性によって自然的制約を含むすべてから自由になった存在としての人間」であることを希求し、その主張をたとえば現実的な側面、社会観察的な側面、いわば「科学的・学問的観点」からの視点からでさえ批判するものはすべて排除する、という方向が「西欧リベラル」の間で一般的になっているのではないかということなわけである。

私自身は全くそういう方向に考えない方なので、トッドの本を読みつつ頭の中でこのアイデアにぶつかった時にはちょっと信じられない感じがしたが、いろいろな事象を考えてもこれを否定する要素は思い当たらず、どう考えても間違った方向に西側世界が動いているのではないか、と思ったわけである。

私は基本的に保守主義だし、そういう意味で「保守政党」を標榜する自由民主党を支持しているが、自民党内部にもこうした考えはかなり浸透してきている感じがする。政治資金問題なども完全に建前主義で物事が進んでいるし、自民党内にもLGBT派の走狗としか思えない動きをする人たちも少なくないからである。

これらの考えかた、「理性で設計した社会のあり方を理想とする」考え方はすでにフランス革命の時代からバークによって批判されてきている、というか既にデカルトの考え方がヴィーコによって批判されているし、またチェスタトンはこれらの考え方を批判して、「狂人とは理性を失った人のことではなく、理性以外のすべてのものを失った人間である」と言っている。現代の状況はこれらの言葉が心の中に大変良く響いてくる状況であるように思われる。

つまりはフランス革命におけるエベール派の「理性崇拝・理性の祭典」であるとかロベスピエールによる「最高存在崇拝・最高存在の祭典」などと同じく「理性崇拝の復活」のようなことがより極端な形で起こっているのだ、と思う。

人間は自然(的性別)を含むすべてをコントロールできるという理性崇拝思想と現実主義への極端な不寛容、つまり「人間は理性的に行動できるはず」であり理性(欲望のコントロール)は信頼すべきだから、そのお気持ちに反する思想、行動は排撃すべきであり罰せられるべきである、というわけで、現実の差別や女性の困難そのものよりもより「抽象的な不満」が絶対化させられている。日本でも誰を傷つけるわけでもない萌え絵が排撃されたり、「セレブバイト」に対する批判や「お嬢さま優遇」に対する批判などが激しく攻撃され、オープンレターや「職場への「問い合わせ」」のような陰湿な形で職を奪う方向に行っているわけで、まさに「理性(崇拝)の暴走」が起こっていて、誰にもそれを止められない状態になっているのだろうと思う。

当然ながらそれに対する反発も起こっていて、アメリカでのトランプ主義やヨーロッパにおける極右の台頭、日本でも日本保守党や参政党などの動きはそれらへのある種盲目的な反発であると思うのだが、世界的に見ても「リベラルなアメリカよりむしろプーチンのロシアの方が自分たちの考えに近い」という形での支持が広がる形になっているのだと思う。

日本における保守の立場から言えば、こうした反理性主義的動きはつまりはこうした理性崇拝の暴走に対する感情的で衝動的な反発であり、こうした事態をより望ましい方向に解決するものではないと思うのだけれども、共産主義と反共産主義がむき出しの暴力でぶつかった時代に保守ができたことに比べてもより小さなことしかできていないのが現実だろうなと思う。

これらの動きは正直どちらもある意味「正気を失っている」ところがあるわけで、このあたりでわれわれは西部邁さんがいう「狂気を面白がるためにはこちらは正気でなければならない」ということを肝に銘じて、より理性的というか常識的な側面からこれらの両者を批判して行かなければならないのだと思う。

道は険しいが、賛同者が少しでも増えていくことを目指すしかないのだろうなと思います。

これらの限界を超えていく一つの手段は「哲学」ではないかと期待はしているのだが、今のところ自分には見えてないことが多いので「期待」とだけ書いておこうと思います。

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