「コロナ明けの時代」の奇妙な多幸感と世の中の変化の掴めなさ/紫式部が経験した京都の夏と今との違い/YOASOBI「アイドル」の物語性の深み
7月20日(木)曇り時々晴れ
5月8日にコロナの五類移行が宣言されて、徐々に世間の雰囲気としても「コロナ明け」という新しい時代、ニューワールドに入っているという雰囲気が強いのだけど、一体この時代はどういう時代なのかという感じが掴めなくて戸惑っているところがある。
「コロナ禍の時代」というのは、とりあえず自粛しとけとかリモートしとけとか接触避けろとかとりあえず耐えて夜明けを待とう、みたいな感じで逆に言えばノリを掴みやすい時代だった。それだけにそれに逆張りして早く経済を動かせとかそういうのもあった訳だけど、「コロナ明け」になってみると妙な多幸感みたいなのがある程度蔓延している感じとでも実際には結構感染症もあり、コロナだけでなく他の変な伝染病が流行ったりしていてとてもアンバランスな感じがしている。
世の中のトレンドとしてはAI技術の進歩というのが与える影響の大きさみたいなもの自覚されてきた感じで、特にハリウッドのストライキなどはある種のラッダイト運動なのか、要は「人間「にしかない」創造性」というものに根本的な相対化を迫る「創造性神話を守るのか、壊すのか」みたいなところに行っていて、つまりは「人間性とは何か」みたいな根本問題に突き当たっているところがあるのだろうなと思う。
これは「遺伝子組み換え技術を人間にも適用するか」という問題と同じように、「神が作った人間という栄光ある存在」みたいなところを突きつけてくる問題なので、例によってヨーロッパでは受け入れに消極的、アメリカは積極的、日本では「ありじゃね」派と「ないわ〜」派が意見をぶつけ合ってるうちに商売人がどんどん実用化を進めるというまたありがちな展開が起こっている感じはする。日本で物事が変化していく時の一番大きな実況描写は「なし崩し」だなとまた感じている。
一方でジェンダー問題も「四つの性」みたいなよくわからない形に収斂していく感じがあり、フェミニズムもTRA派とTERF派に分裂している間もあり、ジェンダー運動家がアメリカの本家のプッシュもあり強い影響力を持つようになっている感はある。この辺りのところは社会変化がどのようなところに落ち着くのかまだ落としどころがよくわからない。
世の中全体がよくわからない感じがするのは、そういういろいろな意味での「移行期」であるから、ということが大きいと思うのだが、しかしこの「コロナ明け」の多幸感、狂騒感みたいなものに自分などはあまりついていけないものを感じるというところがギャップを感じる大きな原因なんだろうなと思う。
インボイスの実施によって中小企業はどんどん潰れていき、どの産業も大手でないとやっていけない感じになっていくだろうし、そうなるとちゅ小企業が多かったことで「経営者マインド」を持つ、いわば民主主義を支えてきた「小市民=プチブルジョア」みたいな層がみな「被雇用者」に転換してしまうことは日本にとってあまりいいことではないと思うのだけど、そういう視点はあまり語られないよなあと思う。生まれてから死ぬまでずっと人に雇われて給料をもらって暮らす人生というもののある種の無責任さみたいなものは、経営者にならないと理解できないところはあると思うのだが。
西暦1000年前後、つまり紫式部や清少納言の時代に京都の夏の暑さはどれくらいだったか、みたいな話について、ヨーロッパでは「中世温暖期」と言って割と気温が高い時代だったとされているが、日本については気候変動がある程度あった時期と考えられてきているようだ。
1960-90年ごろを基準として、日本の気候は11世紀(1001-1100)には0.4度ほど低いかほぼ同じくらい、という資料が伊藤俊一「荘園」(中公新書、2001)に掲載されていて、日本史方面では大体このくらいの感じの意識のようだ。平安時代には農民・民衆の困難は旱魃と疫病が中心で、鎌倉以降のように冷害が原因ということはないので鎌倉〜江戸期に比べて比較的高温だったことは間違い無いだろう。
2020年の気温は1980年ごろより0.4度上がっているようなので、平安時代の平均的な気温はおそらく2020年より0.6度くらい低い。だから今の京都の酷暑とは平安時代なかなり様相が違っただろうと思う。
具体的な大きな違いというのは、平安時代にはおそらく現在のような高温による大規模な風水害ではなく、「高温による乾燥化」が問題になっていたということだ。日本列島の置かれた地理的条件が違うわけでは無いから、これは水循環が日本列島付近で今と違う形で起こっていたということになるので、現在の異常気象みたいなものを基準としては平安時代の体感を考えると結構違うのでは無いかと思ったのだった。
アニメ【推しの子】のオープニング曲、YOASOBIの「アイドル」を聴いていて、後半になると胸が詰まる感じにいつもなるのだけど、どうしてなんだろうと思ってちょっと考えてみた。
「無敵の笑顔で荒らすメディア」から始まる前半部はアニメのOPで使われている部分だが、ここは「明るい虚像」としてのアイドルの姿が描かれている。
そこが終わると「はいはいあの子は特別です」という周囲の目線、いわば「芸能界の裏側」の描写が始まる。同じ「B小町」のメンバーの気持ち、芸能界の内部からも「誰もが信じ崇めてる」アイドルは完璧でなければいけない、唯一無二でなければいけない、ということが歌われる。
そして「得意の笑顔で沸かすメディア 隠し切るこの秘密だけは」からはいわばアイのモノローグになる。アクアやルビーのことも歌われ、そして「いつかきっと全部手に入れる」というアイのいわば哀しさが歌われ、最後には「愛してる、とやっと伝えられた」という一生かけた夢の終わり、みたいなところで終わる。
すごくシンプルな作りで泣かせにきているわけだけど、この構造が成り立っているのは原作の漫画の物語だけではなく、真ん中のパートを支えている「隠された物語」のおかげなわけだけど、これはYOASOBIの側からの依頼で赤阪アカさんが書き下ろした「45510」という小説が元になっているわけだ。
この曲がストーリーとして成り立つためにはこの第二部がやはり必要だったわけで、正反合の弁証法というか「アンチ」がいるからこそ輝くアイドル、みたいなものが表現されている。でもその「アンチ」も実は「厄介なファン」でもあるというのがアイドルという仕事の根本的な難しさを表してもいるわけだ。
原作もアニメもとてもよくできているが、この曲が売れたのもその二つの深みにまでこの曲が降りてきたからこそなんだろうなと改めて思った。