病んでいる人の神聖さと近代性の罪/「例の醤油皿」の「わかりみ」

7月12日(金)雨時々曇り

なんというか書くことがない、というか頭が動かないので少し考えたことなど。

神聖さというのは神に近いものを感じるということだから、病者に神への近さを感じるのはある意味自然なのかもしれないと思う。子どもとか老人もそうだ。

昔話にしても、現代の物語のようなものにしても、病んだ人や子供、あるいは老人などが世俗のものと神聖なものとの接点にいるという文脈になるものは多い。

これはなぜそうなるかというと、俗世間では「弱きもの」とみなされがちであるものが、それに抗うというよりは、そうであることを自然に受け入れ、世界の中でなんというか尊いものとして存在している感じがあるからだろうと思う。

逆に言えば近代人はそこに自分の自我の裏返し、欲望や驕りや嫉みやそういうもののない無垢な者を見て、そこに聖性を感じるということはあるのだろうと思う。そしてそれによりそういう存在として権力からも世間からも保護される、という面はあった。

しかし、現代というか近代において、そういう神聖さというのは差別の裏返しになりやすいとも言える。村上春樹の小説によくそうした存在が出てくるが、近代人たらんとする作者と読者の視線がある上でそういう存在を出すということは、そういう形で利用している、ないし搾取しているという解釈も成り立つということはあるだろう。

しかし近代人の自我存在のアンチテーゼとしてそういうものを提示すること自体はアリだとは思う。特に踊りなど身体芸術のジャンルでは、自分や身体というものを掘り下げるのに、病者や老人、子供の存在が手がかりになることは多いと思う。

またやはり、何者か足らんとするもののある種の罪深さみたいなものの告発という解釈も可能だし、そんなことも考えてみたりした。

醤油皿のデザインがTwitterで炎上ていたようだけど、こういうのは基本的によくわかるというか、基本的な演習として骨格のデッサンとかをやっている美術系の人にとっては、割と普通に出てくる発想なのではないかと思うし、そういうものの原初的な美みたいなものはあるから、それを自分の表現として採用したいというのはよくわかる。醤油皿として使いたいかどうかは別として、表現されるにふさわしい何かがそこにはあるという感じはする。少しムンクっぽい感じもある。

アートというものはより存在の根源に造形や知覚の面から遡っていくという役割はあると思うので、逆に言えばこういうものが不快に見えるということもまた人間存在への問いかけの返答の一つなのだろうとも思う。

そんなことを感じたことを、少しメモ的に書いた。

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