ドイツに勝利/「ブルーピリオド」:罪悪感をテーマに制作しなさい/「頼山陽の思想」決断の君主と立憲君主の間のエアポケット
11月24日(木)晴れ
久しぶりにスッキリ晴れたという感じだ。昨夜は夕方から夜にかけて結構降ったけれども、そのせいかあまり気温は下がらなくて4時半ごろ起きた時にはあまり寒くなかった。
頭の中がごちゃごちゃといっぱいになっていたのでノートに書き出して、少し整理された感じになった。入浴したら洋服を着た後にものすごく汗が出て何度も汗を拭きなおした。どういう状態なんだろうか。
朝早く起きると、新聞が配達される前に目が覚めていることが多いのだが、今日はなかなか新聞が来ないなあと思っていたら5時半頃に来て、やっと来たかと一面を見たらサッカーワールドカップで日本代表がドイツに勝ったとのこと。これはすごい。なるほどこの記事を間に合わせるために遅くなったのだろうなと思った。後でコンビニに行ってみたが全国紙はどれも間に合っていなかったので、地元紙だから無理やり記事をねじ込んで印刷を遅らせて配達も遅くなったのだなと想像した。
昨日は一日雨の休日でその中でもいろいろやってはいたのだけど、わりとマンガ読み直しモードに入っていて、「宝石の国」を読みたかったのだけど東京の自宅にあるのでこちらにある「ブルーピリオド」12・13巻を読んでいた。
「ブルーピリオド」は前半は主人公・矢口八虎の藝大受験がテーマで現役合格するまでのあれやこれやがスポ根的で面白かったのだが、合格後は何を目指すかを見失ってしまったというか、周りのレベルの高さと自分の出来てなさに苦しんでいる場面が多かった。
しかし2年時になって担当になった犬飼教授が権威主義的でまた厳しいというかスパルタな人で、一年の新旧制作の時のコメントも芳しくなかった。2年最初の課題が「500枚ドローイングを描け」という課題で、八虎は同級生(といっても年はだいぶ上)の村井にヒントをもらって人物スケッチで500枚を書き上げ、絵を描く喜びを思い出す。評価は「いつまで同じことをやっているのか」「自分にこだわるだけでなく周りから学ばないともったいない」というものだったが、ここで心も腕も活性化したのだろうなと思う。
2年に進級したのが12巻の初めで、予備校時代は同じ油画だった桑名が彫刻に進んだことなどかなりの変化も生じ、高校時代の友人や油画科の同級生たちとだけでなく他学科の友人もできて、それをきっかけに「ノーマークス」というアートコレクティブの集団に出入りするようになり、中でも代表のフジキリオに強く惹かれ、またフジも八虎を面白がり可愛がってくれたこともあってすっかり入り浸るようになる。
この辺りはアフタヌーン連載の時にも一度書いた感想の内容と重なるのだが、今回読んでいて心に残ったのはフジが西洋美術史を概観して「歴史の挿絵」と表現したところで、つまりはアートを権力者のものから自分たちのものへ、という主張になり、美術館などの「制度」に対する異議申し立てなどの話につながるのだけど、「西洋美術史は西洋のものだから日本人はその外部にいる」ということによって自体は日本ではより複雑だし、またそれを唱えるノーマークスも宗教と揶揄されたり危険視されたり、その一方で資金繰りがうまくいかなくて取り壊しになったり、その中にいながらそれをどう受け止めていいのかわからない八虎の自意識の動きが、まさに「罪悪感をテーマに制作しなさい」という課題とピッタリシンクロしていくところの展開が今度読み直した時はとても上手く構成されてるなと感じた。
「ノーマークス」という集団に関わったからこそ学べたこと、また美術に対する思いの復活というものと、それが無残に評価される現実というものに向き合う中で「罪とは解釈であり、解釈とは視線だ」という自分なりの結論に到達しそれを作品化する。「罪の解釈は自分自身を映す」、そのための装置なのだと。
犬飼教授の評価も「やればできるじゃないですか」というもので、「この2ヶ月間相当勉強したんですね」と「その経験は勉強だったんだ」という評価を明確に与えてくれて、「やったことは間違っていなかった」という指導をしてくれたところは藝大入学後の最も力になる「指導」だっただろうなと思う。
この作品は連載時にもめちゃくちゃよくできてると思って実際に見てみたいなと思っていたのだけど、これは後書きを読むと宇野あずささんという藝大博士の方の作品らしく、流石にオリジナルではないだろうと思っていたけどやはりそうで、この作品にモノホンの迫力を与える「もの=作品」は作者さん自身の作品に対する感動と結びついたものだからなんだろうなと思った。
「頼山陽の思想」そろそろ返却しないといけないのだが、読み切れていないしまだじっくりと読みたいところもあるので、買おうかなと思い始めた。線を引きながら読みたいところもあるし、普段考え慣れないテーマはもう少し没入しないと得るものが少ない感じがする。
今読んでいるのは第二章「「君主論」の成立 頼山陽」の第2節「英断の君主」の第2項「権力の把持」なのだが、恐らくはこの前後がこの著作の一つの大きな肝になるところだろうと思う。
国家における「君主」の機能は「判断と決定」にある、というのはその通りだと思うのだが、それを儒学者たちの「宰相」必要論と比較する形で山陽も著者も展開して行くのは面白かった。宰相を廃止し皇帝独裁を強めた明のやり方の儒者側からの批判というのは儒者の権益にかなうものだというのはなるほどそうだなと思ったし、逆に戦前期の人々が権力が集中する「幕府的存在」を嫌い、結果的に陸軍と海軍の対立など官僚的セクショナリズムの弊害に陥った一つの原因が山陽の思想の影響としてあるのかもしれないとは思った。
国家において誰がどのような形で権力を握るのが正しいのか、それはどのようにして正当化されるのかというのは民主制でも君主制でも重要なことであり、そのためにさまざまな国家制度が生まれているわけだけど、「士の気」を重視しつつ「君主の決定権」を重視した山陽の思想が形式的には明治憲法に生かされたけれどもイギリス的な立憲君主制をモデルと考えていたらしい昭和天皇の考え方のちょうどエアポケットのようなところに歴史の蹉跌が生まれたのだなという残念な気持ちもまた感じるものはあったのだった。