新しいものにチャレンジすることが気分転換/ドイツにおける極右伸長:「疎外」と「参加と共有」と「伝統と常識」

6月13日(木)曇り

最近は日中晴れて夜に雨、というパターンが多いのだが、昨日もそんな感じで夜帰る頃には車がきれいになっているという感じがある。梅雨が明けるか明けないかという頃にそういうパターンになることが昔は多かったのだけど、梅雨に入るか入らないかという今の時期にそうなるのはあまり経験した覚えがない。それとも今年は天気に敏感だからそういう感じがするのだろうか。

どうも高潮期というか躁鬱で言えば躁というか体が動く、というより動いてしまうという感じの時期になっていて、こういう時にはあまりじっくりと物を読んで考える、みたいなことがしにくい感じになっていて、体調的にもちょっと変なところが出たり、行動をしてもうっかりミスみたいなのが増える時期になっていて、探し物が増えたりもしているし、昨日は整体の操法を受けに松本に行ったのだが腹がおかしくなってしまい受けている間もこらえている感じだったが、あとは割とスッキリした感じになった。頭の使いすぎということだったのでなるほどとは思うのだが、どんどん動いてしまうので仕方ない、みたいなところもある。

気分転換というと調子が悪い、低潮期というか鬱っぽい時には新しいことをやろうとすることがストレスになって、自分の中に沈潜できる守られた環境にいることが癒しになる感じはあるのだけど、今の感じは新しいことにチャレンジすることがむしろ気分転換になっているな、と昨日は運転しながら思った。

多分私にとって新しいこと、新しい物、新しい環境、そういう「新しさ」というものはとても大事なことであって、いわゆるアーリーアダプタ的な部分が結構あるのだと思う。もちろんそれに面白さを感じるからそうするのだけど時期が合わないとそういう物を敬遠してしまって後になって受け入れに苦労するということもある。今は新しいものがどんどん出てくる時代だからそれを面白がれるのはプラスの資質だとは思うが、古いものも好きだし大事にしたいところもあるのでその辺のバランスで結構苦労するところはある。

ただ逆にいうと、何か理由があるから新しいものにチャレンジするというより、面白そうだから、気分が変えられそうだからチャレンジする、みたいなところがあるので、気分が変わったら関心がなくなるということも多く、つまりは「飽きっぽい」ということになってしまうわけである。子供の頃からそういうのは強くて(子供というのはある意味ずっと躁状態だ)何かやろうとしては面白くなくなったら投げ出す、みたいなことは多かった。だから逆に自分に習慣づけることには注力をしていて、今でもブログも毎日書いているが、起きたらまず最初にこれをやる、と決めることで習慣化させることができた、みたいなことはいろいろある。

昔は英語のリーディング教材をそれで短期間でこなしたことがあったが、文章を書くというのはテーマが決まらないと書けない(書いているうちに出てくる場合もあるが)ので、1日の最初に書けるとは限らない。ただ書けなくても少しは書いておくと自分の中に引っ掛かりができて、それを考え始めると文章になるということも多い。

考えた内容が全て書けるわけではないから書けない内容の方に頭がいくと文章を書けなくなるからブログを書くときは一定バイアスをかけているのだが、それでも昨日などは書けない内容だよなあと思いながら考えて書いて、思ったより大事なことが書けた気がしたからまあそういうことが必要なこともあるなと思う。


旧東ドイツで極右と言われるAfDが伸張している件、「旧東ドイツの独自の問題」に帰そうとする西側の人たちが多い中で連邦政治センターでちゃんと分析した結果が出ているようで、「自分たちの声が聞かれている実感がない、参加(TEILHABE)の問題である」という話が興味深かった。

自分たちは現体制とその公式の歴史に「参加」していないという実感、つまり「疎外されている」ことからアンチテーゼとしての極右AfDや極左BSWを支持する傾向がある、ということのようだった。

teilhabe で検索すると、英訳したらparticipation参加となるが、和訳してみると「共有」と出て、私たちはドイツの公式の歴史に参加していない、私たちの歴史はドイツ全体に共有されていないという不満が東ドイツ地域にはある、というのはそれ自体はその通りだろうなあと思った。

これは移民の子弟などのイスラム過激派入りの問題や、若者が極右や極左を支持しがちという問題とも共通するわけで、自分たちが排除されているという意識、これは日本などでも昔から若者が社会に対して持つ不満と同じようなものだが、そういうものが政治行動に反映しているということなのだろう。

それではその解決はどうしたらいいかということだが、理解を深めればいい、ということは現段階ではあるだろうと思う。東ドイツの歴史もまた自分たちドイツ国家の歴史の一部である、というスタンスで例えば歴史教科書も編纂されれば旧西ドイツの人たちも東ドイツの歴史を共有し、自分たちの同胞の歴史として学び取ることは不可能ではないだろうと思う。もともと同じドイツ人なのだから他民族に比べればやりやすいところはあるだろう。もちろんこれは限界はあるのだけど、現段階でおそらく旧西ドイツ側にそういう努力が十分なされているという印象はあまりない。だからその意味で、在日朝鮮人や沖縄やアイヌの歴史を一般の日本人がある程度は学ぶのと同じくらいの重要性はあるだろうと思う。

これはまあマルクスの疎外論のようなものだが、若い頃は疎外論で社会問題は大体切れるみたいな印象はあったけど、今はむしろ少数派の側の多数派に対する被害意識、またそれからする多数側の常識や心性、価値観への理解の低さというかマイノリティ理論で潤色されてしまった色眼鏡でしか見られない部分の問題の方が大きいと感じているところもある。

西ドイツの側は形として東ドイツ国家は解体し東ドイツ諸州が旧西ドイツ=ドイツ連邦共和国に参加したという形で統一がなされたから、存続団体である旧西ドイツが正統であるとして東ドイツ側を顧みない、雇用や賃金、産業の問題としてのみ見てきたという面はおそらくあって、旧東ドイツ社会が受けた深刻なショックみたいなものに無自覚であるということはあるだろうと思う。

メルケルのように旧東ドイツ社会から出てきて統一ドイツで大きな役割を果たした政治家ももちろんいるわけだから、メルケルに続く形でドイツに貢献することが東ドイツでも成功するためには必要なことなんだろうとは思うが、これはアメリカにおけるラストベルトのプアホワイトの不満のようなもので、誰もが成り上がることはできないから地域的な「見捨てられている」感情というものは割合厄介なものだ。

日本でも日本海側は昔は「裏日本」と呼ばれ、そこから自民党の大立者、田中角栄をはじめとして竹下登、森喜朗などが出てきたことは忘れてはならないだろう。

現在はどちらかというと地方の不満のようなものは運動家に利用される傾向があり、やはり旧東ドイツでもAfDやBSWが伸張しているのは利用されている面はあるのだと思う。先の連続ツイートでもAfDで本当にやばい活動家は西ドイツの出身だとか、西ドイツ右翼は併合した東ドイツを実験場のように考えていたとか、かなり問題を感じさせる話もちらほら見る。

AfDの現在の指導者も東ドイツ地域出身のクルパラと西ドイツ出身のワイデルが勤めていて、ある意味バランスをとっているようだ。

まあ現代民主主義の方向性で言えば上に述べたような「参加と共有」が一つはキーワードになるのだろうとは思うのだが、やはりそうした綺麗事だけでは国民統合のようなものは図れない部分はあると思うし、きらきらワードを前面に押し出すと結局はリベラルエリートが権力も利権も独占することになってしまうだろうと思う。だから、伝統ないし常識というような保守的な価値観をどのように更新していくか、くらいのところに重点を置いて考えて行った方がいいのだろうと思う。

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kous37
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