「世界の破壊と解体」をどう考えるか
篠原雅武「「人間」以後の哲学」読んでる。とりあえず第1章「世界の終わり?」まで読んだ。
我々人間が構築してきた「世界」が人間の外部的なものによって脅かされ、不安定化され、あるいは破壊され解体されていくことをどのようにとらえるか。
それらについて哲学者などの人たちの言説が取り上げられているわけだけど、印象に残ったのはエリザベス・グロスと磯崎新だろうか。
グロスの議論は、このような破壊され解体されていく事態を、我々の「世界」そのものをカオスの中からコスモスが一時的に形成された状態と捉え、その破綻の可能性に対してアーチストないしアート作品が鋭敏に反応するとし、つまりはその外部的な力というものが外部的でありながら我々の生を「貫いている」ものであり、我々自身を活性化するものと捉えている、としているのだと思う。
磯崎は「広大な世界」の中で「人間世界」が一時的に成り立ってはいるが、それはなんらかの力で満たされているわけではなく、したがって未来は破壊と解体のプロセスでしかなく、構築されていく現代の都市の下層には未来の廃墟が潜在的に存在している、と捉えている著者は考えているということなのだと思う。
つまりは現代の危機をある種の人間の乗り越えていくべき試練と捉えるのか、諸行無常的な観念のなかで捉えるのかということかなと思う。
まあここのところは難しいというかどういうふうに考えようとも人間はできることをしていくしかないということでもあるし、たとえ一時的に再生のブームが来ても、「メメント・モリ」的な滅び去ることも視野に入れて眺める必要がある、というようなことだろうか。
まあ現在の対立、例えば左右対立とか、緊縮財政か積極財政かとか、科学を信じないか信じるかというような形で現れている対立はそのようなところがあるなと思う。例えば原子力発電などに関しても、問題があれば修正すればいいという立場、「制御していけば大丈夫」という立場と、実際の原発事故を踏まえ「制御不可能になることがあるのだから廃止すべき」という立場に分かれているのも、こうしたグロスと磯崎の「世界の崩壊」に対するスタンスの違いのようなものから出て生きているのかもしれないと思う。
そういう意味で言えばグレタ・ツンベリが温室効果ガスの排出を削減するためには原発も有効という立場を表明しているのは、環境派の中でも「世界の崩壊=温暖化状況は人類が制御可能」だと考える人々に属しているということであり、日本の多くの環境派が「世界の崩壊は人間には制御不可能なので危険な原発は廃止すべき」という立場であるのとは異なるということになる。
昨日の記事の続きでいえば、前者はリベラリズム=人間中心主義の「強さ」、楽観性、底力のようなものを示していると言えるだろうし、後者はそういう伝統の弱い日本だからこそのある種の伝統回帰的な側面があるとも言える。
保守的な立場で言えば、多分これから「世界」がどうなろうとも、「今ここにいる」人々がどう生きていくか、どう生かしていくかが問題だということになるのだと思う。だからあまり、崩壊の未来図を云々することに意味があるようには思えないし、ブッダの毒矢の例えのように、まず緊急の措置を取ることの方が重要だということになると思う。
ただその中でも世界の分裂のある側面がどのようにして起こっているのかということを押さえておくことはマイナスではないし、ただその議論にあまり巻き込まれない方がいいような気がする。
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