弥助問題に見る「アイデンティティ・ポリティクスの危険性」と「日本人はなぜ腹を立てたのか」/バイデン大統領の撤退表明と経済・安全保障への影響
7月22日(月)晴れ
昨日は1日調子が悪くてぐずぐずと過ごしたという感じ。夜になってから京都にいる友人とメッセンジャーで話して、暗黒舞踏のワークショップの話などしたのだけど、送られてきた写真や動画などをみて、久々に身体表現について考えたりして、いろいろと蘇るものがあった。ニューヨーク、ハドソン川沿いの公園で白塗りの人たちがパフォーマンスをしているのはまあいろいろと面白い。舞踏の人の持つ身体、日本人の身体、アメリカ人のダンサーたちの身体を見ながら、アジア的なものとギリシャ的なものの対置みたいな感じで演出したのかなと思ったが、全て舞踏の訓練であることもまた確かなので、アメリカ人ダンサーの身体や動きがどことなくバレエ的あるいはギリシャ的になるのは彼らが身につけてきたものが現れているということなのかなと思ったり。
夜は11時ごろには寝て、起きたら5時半くらいで、ここ二日は割とよく寝られているという感じだし汗も出るようになってきたからそういう意味では身体的には良くなったのかなと思うのだが、少し身体的に余裕が出るとあれもこれもとやらなければいけないことが浮かんできてこれはまた対処が大変だなという感じである。その中で自分がやりたいこともちゃんとした強度でやっていく必要があるし、また端的にこの暑そうな夏を乗り切る必要もあったり、いろいろあるなと思う。
朝起きてパソコンを開き、Twitterを見たら未明にバイデン大統領が選挙戦から撤退するという大ニュースが飛び込んできたらしく、ハリス副大統領などがトレンドに上がっていて驚いた。
これは正直、「ようやく」というか「ついに」という感じではあったのだけど、最後まで意地を貫き通す可能性も考えていたからやはり大きなニュースであることに間違いはないだろう。ドル円の関係はどうなるか、市場はどう動くか、やはり一番影響力があるアメリカの政治が激動状態なので、市場も非常に不安定になるだろうなと思う。
アイデンティティ的にいうと黒人でありインド系でもある女性が大統領候補になるとしたら、初めてのことだろう。まだ民主党大会は行われていないのでハリス氏になるかどうかはわからないが。これまでの任期中はあまり表に出てくる感じがなかったから、大統領としての手腕はちょっと未知数だなと思う。
もう一つの問題は中国やロシア、その他国際情勢に与える影響だろう。バイデンはなんだかんだ言いながら限定的ではあったが熱心にウクライナを支援してきた。だからウクライナ、ゼレンスキー大統領としてはショックだと思うが、ツイートではバイデンの功績を称え、感謝し、労っている。これが外交というものだろうと思った。
現職大統領が途中で選挙戦を撤退するのは1968年のリンドン・ジョンソン以来だそうだが、この時は民主党の有力候補だったロバート・ケネディが暗殺され、アイゼンハワーの副大統領だった共和党のニクソンが勝っている。ジョンソンは元々1960年のジョン・F・ケネディの副大統領で大統領暗殺後に昇格しているので、もし1968年選挙で再選されていたら8年を超える任期になったわけだが、そうはならなかった。
ロシアでもかなり徴兵が行き詰まっている感があったり、中国も三中全会で習近平が存在感を示せなかったりもたついている感じはあるのだが、アメリカに政治空白ができると両者とも何をしてくるかわからないところはある。日本としては周辺事態に備える必要はあるだろうし、ヨーロッパ諸国もそれへの警戒感はもちろんあるだろうと思う。
バイデン大統領が現職ということもあり、私はあまり民主党内の候補者選びには注目して来なかったが、民主党大会までの短い期間に誰が台頭するのか、あるいは副大統領候補になるのは誰なのかとか、またみていくべきことが増えたなとは思う。そういえばヴァンス副大統領候補の「ヒルビリー・エレジー」がまだ途中までしか読めてないのだが、いろいろやることがあるな。
安土桃山時代に(1581年)に宣教師ヴァリニャーノに連れられて来日し、信長に請われて譲られて仕えるようになった黒人青年、「弥助」をめぐる問題でTwitterのタイムライン上でもかなりの混乱した論争が行われ、歴史学者の方々も参戦して喧々諤諤になっていたけれども、問題の所在については20日のnoteで自分なりに整理しておいた。
論争の中心は、弥助の「史実」をめぐる議論が一つ。これは正直文献が少ないので、その少ない文献からわかることについてさまざまに語られていて、これはそれなりに説得力もあり、また私も知らなかったことがたくさんあり、さまざまな知見が得られた。
それに参加していた歴史学者は主にお二方いて、平山さんは武田氏を中心とした戦国大名の研究者であり、まさにこの時代の研究をなさっている。大河ドラマ「真田丸」「どうする家康」の監修をされるなど、こうした歴史題材作品にも関わっているという点で、大衆との接点もお持ちの方だと言えるだろう。
もう一人は東大史料編纂所の岡美穂子さん。ご主人のルシオ・デ・ソウザ氏と共著の「大航海時代の日本人奴隷」(中公選書)や羽田正さんとの共著「Maritime History of East Asia」(京都大学出版会)などがあり、リスボン大学に留学されているなど東アジアの「奴隷」についての専門家だということだろうと思う。京都大学出身で東大の准教授というのは上野千鶴子さんと似たコースではある。
この方はご主人のソウザ氏がロックリー氏の近著「A Gentleman from Japan: The Untold Story of an Incredible Journey from Asia to Queen Elizabeth’s Court」のレビューに寄稿するという距離感にある方で、岡さんも「つなぐ世界史」第2巻にロックリー氏の小論を収めるなどの関わりもおありのようである。ツイートでもロックリー氏に非常に擁護的というか、批判に対してはヘイトだと退ける姿勢がおありだった。
実際、岡さんやソウザ氏の著者のレビューを拝見すると、弥助の問題は大航海時代に思った以上に世界で人的交流があったのだ、という知見を明らかにするという点では面白いエピソードであるし、その辺りをもう少しちゃんと読んでみたいとは思う。
私もこの問題を最初に聞いた時、何が起こっているのかよくわからなかったが、いろいろな方にご教示いただいたりツイートを読んだりしているうちに、日本人にはあまり意識されていないが、世界ではずっと展開し続けているアイデンティティ政治(identity politics)の問題なのだ、ということがようやく理解できた。
大航海時代に日本に来た黒人がいて、彼が信長の家来になったというのはそれ自体が興味深いエピソードであるのだが、それを意図的に利用して黒人の文化英雄として弥助を祭り上げて、日本に多くの黒人奴隷がいたとか特別の地位を築いた黒人もいたとかその子孫はまだ多くいるというようなストーリーを事実として創作ないし捏造しようという動きが起こっているということである。
それにはロックリー氏の著書が大きな役割を果たすとともに、アサシン・クリードというゲームにおいてロックリー氏の観点から弥助を黒人の英雄として取り上げることでDEI、すなわちDiversity, equity and inclusionの観点において高評価のものを制作しアピールしようとしているフランスのUBIの戦略が大きく働いたわけである。
DEIについては先に触れた20日のnoteの中でその問題点を挙げているが、「多様性、公正性、包括性」というスローガンの元に、人種で言えば黒人の立場を今まで排除されてきた存在と見做し彼らにアドバンテージを与え、それらに反対、批判するものについてはヘイトであるとかレイシストであるとかのレッテル貼りを行うことで排除しようという運動になっているわけである。実際、海外の弥助信奉者とのやり取りで疑問を呈するとそのような悪罵を投げつけられる例が多発しているようである。
しかし、先のnoteに書いたように全ての黒人がこうした立場を支持しているわけではないわけで、これはLGBT運動の主導によってさまざまに行われているトランスジェンダーの取り組みに対して、当の性的少数者の人たちから強い批判が多数寄せられているのに対し、運動家の側が激しい言葉で悪罵をぶつけている例もTwitterでよくみられる現象である。
アイデンティティ政治というものは、このような形で主導する運動家たちとそれに扇動され追随する人たちが暴力的な言動に走るという現象を引き起こしているわけであり、これらは尖閣問題に見られるように中国などの政府自身が主導して行う場合もあるが、最近では政府は後景に退いてそうした工作を行う人たちの手によって行われる場合もあるし、また完全にローンウルフというか一匹狼のような人が大きなうねりを引き起こす場合もあって、当の中国政府はむしろそれを抑圧する方向に動いている。コントロールができないことが最大の問題だからだろう。アイデンティティ政治はそうした厄介さを常に持っている。
こうしたアイデンティティ政治の起源の一つは、ナチスのユダヤ人らに対するさまざまな言説ではないかと思う。ドイツ国民の中にある第一次世界大戦の敗戦への不満に対して、「ユダヤ人が背後から撃った」「共産党の策謀である」といった言説によって大きな迫害状況を作り上げた。もちろんこうしたユダヤ人ら少数者に対する迫害はそれ以前から見られたが、19世紀は概ね理性の時代・科学の時代であり、また古典的民主主義に対する信頼があったから、ドレフュス事件のようなユダヤ人迫害も最終的には解決している。
しかし20世紀に入り、大衆政治状況になってからはアイデンティティ・ポリティクスは有効に機能し始めたと言えるのではないかと思う。
書いている間に長くなってきてしまったので戦前の日本のこととかは飛ばす。
日本にとって最大のアイデンティティ政治の敗北は、第二次世界大戦だっただろう。アイデンティティ政治あるいはアイデンティティ戦争に関しては、上に述べたナチスによるユダヤ人攻撃、欧米における黄禍論など20世紀前半にはすでに始まっていたわけだが、日本があからさまにそれに巻き込まれたのは極東軍事裁判とそれ以降の日本罪悪論の展開だっただろう。
第二次世界大戦は「ファシズム対民主主義の戦い」と定義されることが多いが、スターリンのソ連や蒋介石の中華民国が民主主義だというのは全く論外だということは今になれば明らかであり、その定義自体が「アイデンティティ政治」の産物であることがよくわかる。
ヨーロッパ戦線、つまりナチスドイツ対チャーチルのイギリス・ルーズベルトのアメリカという構図においては、かろうじてこの主張は成り立つだろう。しかし東部戦線でソ連がやったことは決して褒められることでないのはもちろんである。
アジアの戦争に関しても、日米戦争は結局は中国利権をめぐる争いであり、それも本来はそんなに深刻なものではなかった。実際のところ、日本近代史においても、「日本が中国を侵略した」ことについては詳しく書かれていても、なぜアメリカがそれに介入して、最終的にはハルノート、つまり日本の中国権益の放棄と撤退を要求するほどの介入をしてきたのかは分かりにくい。
これは後付けの説明によれば満洲事変以降の日本の中国への軍事的進出は国際法違反であるからそれに制裁を加えるため、という理屈が成り立つが、現実には日本が真珠湾攻撃を行なったから参戦したことは明らかであり、それが決定的にアメリカ世論を盛り上げて熱心に対日戦争に取り組むことになったのは明らかである。
しかし極東軍事裁判において連合国側のイデオロギー、特にアメリカの民主主義アイデンティティによって日本が徹底的に糾弾され、日本はそれを受諾する形で平和条約を結ばざるを得なかった。
現実問題として、連合国側が日本に対して行った非人道的な扱いは多くあり、イギリスの「アーロン収容所」問題であるとか米兵による日本兵の頭蓋骨持ち去り問題、中国共産党による帰還兵の洗脳、ロシアによるシベリア抑留や日ソ中立条約違反の侵攻など非常に多い。それらは極東軍事裁判で問題にされなかったから現在まで多くの問題を残している。それはつまり勝者の裁判であり、日本側のナショナルアイデンティティをいかに否定するかがこの裁判の目的であったことを示している。
実際問題、日本では裁判は公正中立な裁判官による真実の確定だと思われがちだが、アメリカの裁判などを見ればわかるように民主主義社会における裁判は実際には政治闘争である。極東軍事裁判も日本人は「天による処罰」みたいに受け取る向きが多いように思うが、現実には政治闘争であったと認識しないと前に進むことはできないと思う。
こうしたアイデンティティ闘争の起源はマルクス主義の階級闘争理論だと思うが、マルクス主義には一応の科学的根拠、つまり史的唯物論という「社会主義革命の必然性」という理論があった。しかし現代の「リベラルと呼ばれる勢力」中心に行われているアイデンティティ政治においてはそうした科学的根拠がないため、より露骨な権力闘争になっているわけである。
日本の連合国の占領期間において、いわゆるWar Guilt Information Programという日本人に戦争の罪を自覚させるためのプログラムが存在したと言う主張があるが、そういう統一的なプログラムの存在自体はよくわからない、というかある種の陰謀論にはなりそうなのだけど、リベラルは常に倫理的正義を掲げてナショナリズムを批判してきていて、それは日本だけに止まらない。ただナチスなど明白にリベラルに対する攻撃があったこともまた事実なので、その辺りを客観的に明らかにしていくことは必要なのだろうと思った。
つまり、政治的立場に関わらず、アイデンティティ政治というものが大きく現代の世界を動かしていて、日本人はそれに鈍感、言葉を変えて言えば「平和ボケ」の状態だということができるだろう。
ここで書いておきたいこととしていくつかあるのだけど、まず一つは「アイデンティティポリティクス」あるいはアイデンティティ戦争というものが現代の世界政治を大きく動かしているということである。アイデンティティポリティクスは大きく言えば「戦争」、つまりクラウゼヴィッツ的に言えば「別の形で遂行される政治の延長」である。ウクライナ戦争を見ればわかるが、直接の戦争参加がなくてもそれに対する態度表明は重要であり、戦争当事国にとって支持の奪い合いが勝敗を決する可能性を持っているわけである。
二つ目は、アイデンティティポリティクスにおいてリベラル派の武器はポリティカルコレクトネス、いわゆるポリコレであり、最近では世界的に見ればDEIというものが新たな手段として用いられるようになってきているということである。弥助をめぐる論争は一つには一企業の作ったDEIによる世界観が歴史認識を大きく歪めている例であり、現代のアイデンティティポリティクスの複雑な様相を一つには示していることになる。
三つ目は、日本の学会ではあまり強く認識されていないが、歴史学というものはそれ自体がアイデンティティ政治の最前線であるということである。この辺りは、近代史においては以前から認識されているし、古代史においても任那日本府や高句麗好太王碑の問題などで認識した人も多いと思うが、現代では先に述べたようにアイデンティティポリティクス上の最大に重視されるものの一つが黒人のアイデンティティであるということもあり、「黒人のサムライ・弥助」というのはその最も焦点になる存在であるということである。欧米では当然ながら大航海時代はヨーロッパによる植民地支配や奴隷貿易に出発点としてコロンブスが問題視されたようにかなり前からアイデンティティ政治(戦争)の対象に(戦場に)なっていたわけだが、それがついに日本にまで及んできたということである。
だから日本人内部に対する啓蒙として弥助のサムライとしての地位の評価を与えることはそれはそれで意味があることなのだが、アイデンティティポリティクス上では自説の強化の部品として使われることは意識しておくべきことであるわけである。
現実問題として、日本中世史の新鋭の学者が「キャンセルカルチャー」の餌食にされたように、歴史学は決してアイデンティティポリティクスと無縁なわけではない。またこれはいわば戦争であるから、「謝ったら多めに見てもらえる」というようなものではなく、ポリコレイデオロギーの学習=洗脳を義務付けられ忠誠を誓わされるなど精神の自由にも大きな影響を与えるものであることは意識しておかなければいけないだろう。
客観的に言えばまずこうしたアイデンティティ政治というものをより明確にイメージできるようにその全体像をはっきり描いていくこと自体は、こうしたアイデンティティ政治の不毛性を明らかにし、より高次の人類の在り方を考えていくことで重要であると思う。私自身も、もう少しその辺りを研究していきたい感じはしている。
もう一方では、戦後ガタガタにされてしまった日本のナショナルアイデンティティというものの再構築があるだろう。例えば安倍元首相の「美しい国・日本」というのは一つのそうした試みであったと思う。
今回の弥助問題について、Twitterという限定された場ではあるにしろ、多くの人が憤激しこの問題について正確不正確を含めた多くの議論が行われたのは、日本人自身がアイデンティティの大きな要素と考えている「日本の歴史」を侵害された、そこを不当な形で歪めようとしている存在が明らかにされた、ということにあるわけである。
これはいわば、日本が今まで営々と気づいてきたものを小説やゲームによって奪おうとする勢力に対する憤激、日清戦争後の「三国干渉」に対する憤激と本質的には同じだと思う。
弥助問題について批判しようとする人たちに対して、歴史学者の方々が「ネトウヨの人たち」という言い方をするのは、この問題がアイデンティティ戦争であることをはしなくも表している。「ネトウヨ」という言葉は日本のナショナルアイデンティティを大事にしようとする人たちに対する侮蔑語であるからである。そうした侮蔑語を躊躇なく使うということは、これは社会人としての礼を最初から欠いた態度であり、そうした意見を「敵」と見做している、つまりは戦いの相手と見做していることを示しているわけである。
だから冷静に批判しようとする人たちに対してもネトウヨという言葉をぶつけ、どんどん敵を増やして収集がつかなくなっている。
先にも述べたが、オープンレターによるキャンセルカルチャーで有為な学者がキャンセルされたこともあり、歴史学を含む人文学の内部ではアンチポリコレと思われると学者生命に関わるという状況が生まれているのだろうと思う。そういう意味では同情の余地はないわけではない。
現代において、どんな国にでも保守派とリベラル派というものはある程度は存在するわけだけど、日本の保守においてはなかなかその核になる存在がない。保守と言われる自民党も結局は生活保守、経済優先でこうしたアイデンティティ論においては冷淡な人々が多いのが実情であり、また熱心な人たちもいわゆるネトウヨ的な近視眼的な論点に陥っている人が多い。
こうした状況を改善するためにはやはり保守のメインになる論壇というかそういうものが必要なのだと思うし、そこで論点を整理して、リベラル派のアイデンティティ侵略に対抗していく必要があるのだろうと思う。今までも「新しい教科書を作る会」のような試みはあったし、日本会議のようなそういうものを主導していく人たちは現れてはいるのだが、より冷静に客観的に日本のナショナルアイデンティティの再構築に関わる場が必要なのだと思う。
「立場を超えたアイデンティティ政治の研究」と「ナショナルアイデンティティそのものを再構築させる場」という二つのことを両立させていくことは難しいとは思うが、これらが今一番取り組まなければならないことなのではないかと私は思っている。
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