「本居宣長」と「17歳JK」と「ジェンダー運動家たち」/古今集の「六歌仙」と「男4人女1人」の「ゴレンジャー」の起源
6月17日(土)晴れ
今朝は久しぶりによく晴れている。その分放射冷却があって、14度まで下がった。そんなに寒いというほどでもないけど、じっとしていると寒くなってくる。最高気温の予想は30度。梅雨の晴れ間、昔の言い方で言えば五月晴れということになるが、庭のさつきもよく咲いていて、今が季節なのだなと改めて思う。
晴れているせいか、頭も比較的すっきりはしているのだが、梅雨の間に昔傷んだところや今調子が良くないところに痛みが出るということはよくあることで、なんだか今日は右腰が痛い。これは運動不足とかお腹の調子などいろいろ関係がありそうだけど、ストレッチしたくなるような痛み方というのは最近なかったなと思う。
今朝は車を走らせて隣町のガソリンスタンドまで給油しに行った。先日東京へ往復したあと給油してなかったのでだいぶ減っていたが、五千円は行かなかった。私は半分になったら給油に行くことが多いのだが、今回は少し引っ張ってみたのだが、このくらいでもそんなに心配ではないなとは思った。しかし満タンの方が安心感はあるわけで、その辺はまあ気持ちの問題だなとは思った。帰りに運動公園近くのデイリーヤマザキに寄って塩パンを買って帰る。
https://www.shinchosha.co.jp/book/100706/
Twitterを見ていたら小林秀雄「本居宣長」からの引用があり、
「おほかた人のまことの情といふ物は、女童のごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にはあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢて、つつむとつつまぬとのたがひめ計也」
という言葉が引用されていた。大体「本当の人間の感情というものは少女のようなもので、未練で愚かなものだ。男らしくキリッとして賢そうなのは本当の感情ではない。それはうわべをつくろって飾ったものに過ぎず、本当の心の底を探ってみたらどんなに賢い人であっても少女とかわりがない。それを恥ずかしく思って見せるか見せないかの違いがあるかどうかに過ぎない」という意味だろう。
これはまあそうだろうなとは思うわけだけれども、「女童」という言葉をとりあえず少女と解釈してみたが、「女子供」と解釈してみると当時の男性がさげずんでいた女性や子供の情こそが本当の人間の情である、という解釈になり、まあその方がわかりやすいかなとは思った。自分の中にも少女はいるかもしれないが、男児=少年もいるようには思うので、妥当かなと思う。
まあなぜこのようなことが心に残ったかと言えば、今はフェミニストだとかLGBT運動家だとか、「ジェンダー平等」を叫んで荒れ狂っている人々の行動原則というものが「女こども」では全くなく(衝動自体はそういういわば「幼稚」なものかもしれないが)、賢しくむくつけき男どもの行動の仕方をなぞっているわけで、なんだか偽物だなという思いが200年前から指摘されていたのだなと思ったということだ。
逆に、軍事学者の小泉悠さんなどが「全裸中年男性」とか「17歳JK」を名乗るのはある種の(肯定的な意味での)ポエムではあるのだが、本居宣長以来の伝統に則った作法でもあるのだなと思ったわけである。
まあ日本的な意味での「まことの情」というものが激しく棄損されていく一方のこの時代にあり、あえて「女童のごとく、みれんに、おろかなる物」に踏みとどまることこそが日本らしさを守っていくことである、という一面もあるのだよなと思ったわけである。
noteの方を見ていたら喜撰法師の話が出てきていて、ついでに古今和歌集とか六歌仙とかを調べてみたのだが、考えてみればこういうふうな括り方をするのは「ラーメン三銃士」とか「コスプレ四天王」みたいないわばオタク的な括り方だなと思ったりした。
また面白いと思ったのは、「六歌仙」というのは「男5人と女ひとり」の組み合わせについてそういう、という用法が江戸時代に出てきたということで、『天保六花撰』などがその例だそうだが、なるほどこれは「ゴレンジャー」とか「科学忍者隊ガッチャマン」の「紅一点的なもの」の元祖なのだなと思ったのだった。ゴレンジャーが平安時代まで遡るとはと。
しかしゴレンジャーなどは大体「男4人・女ひとり」の組み合わせになっているわけだけど、6人ではなく5人になったのは「白浪五人男」の影響かなと思った。これは全員男ではあるが、弁天小僧菊之助は女装の美人局であり、倒錯はしているが紅一点であることは間違いない。5人の並びが「ヒーロー・クールキャラ・お笑い担当・女の子・おっさんキャラ」という定番になったのがどの時点かというのはまだ検討しないといけないが、まあそんなことを思ったのだった。
白浪五人男について考えてみると、日本駄右衛門・弁天小僧菊之助・忠信利平・赤星十三郎・南郷力丸の順で名乗りを上げるわけだけど、それぞれ「ボスキャラ・色気のある女装ワル・神出鬼没キャラ・闇堕ちした美少年・太々しいワル」みたいなキャラである。まあ悪党だからそうなるが、これが正義の味方に変換されたのがゴレンジャーということになるだろうか。
まあ適当な考察なのでどこまで展開できるかはわからないけど、江戸時代の庶民文化というのは案外我々の心の中の定番に影響を与えているのではないかと改めて思ったのだった。
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