民主主義を支えるのは誰か/民主主義を支えるのは制度か人か/アメリカというセカイ系国家/国際法秩序を守るというリアリズムと「ロシアを支持する人たち」

3月11日(土)曇り

雨が降りそうな感じはないけれども晴れてもいない、梅雨時らしい天気。草刈りをしていても虫がたかってきたり、台所も油断すると蟻が出たりしている。暦の上でも今日が入梅。しばらくこういう感じでいくんだろうと思う。草刈りもできる時に少しずつしようと思うのだが。


タイムラインで消費税について、特にインボイス制度についての発言がいろいろあったのでちょっと思ったことを。

消費税についてはそれが導入された時に中小事業者の方から反対が強く、そのためにいろいろな優遇措置がとられているのだが、インボイス制度というのはそれを剥奪するため、という側面はあると思う。中小事業者に対してあたりをきつくしていくというのが今の新自由主義的な財政経済運営の基本にはあることは確かであるように思う。

ここでは少し普通の議論とは観点を変えて、民主主義的政治制度との関わりの面で「中小事業者優遇」について考えてみたい。

古典的民主主義というものは独立自営のブルジョア・プチブルジョアが存立の基盤であり、フランス革命を主導したのは彼らだった。被雇用者は経済的に雇用者側に命運を握られているので当てにならない、というところから「独立した市民を重視する立場」は出ているので、中小事業者が存続していけることは民主主義の条件にとって必要なことだと私は思っている。

従って、中小事業者が存続していけるような制度にするべきだと私は思うのだが、ということは煩雑な納税制度それ自体が中小事業者にとっては事業存続の障壁要因になっていることは明らかなので、優遇制度はある意味民主主義を擁護することであり、それを取り払うこと自体が民主主義の一つの基盤を掘り崩すことだという認識が私にはある。

もちろん現代は古典的民主主義と言える状況ではなく20世紀の被雇用者が増大した大衆民主主義からさらによくわからない方向に変化しつつあるのだが、今でも政治家になる人・志す人たちが官僚や運動家を除けば地域のブルジョアである部分に古典的民主主義性が残っているのではないかと思う。

「普通のサラリーマン(被雇用者)」が政治を志すことが少なくとも日本では少ないのは、その存在形態自体が「民主主義」というものと必ずしも合致してないからではないかという気はする。基本的に「会社」というものに「生殺与奪の権」を握られていて「独立した個人としての自由な政治活動」をするのは難しいのが普通だと思う。

民主主義がどうあるべきなのかは誰をその基盤にするのかということになるわけだけど、普通の議論はどうしても「抽象的な個人」が、いわば「経済学でいう経済人」が利益の最大化を追求するという実際にはそうはいない人間を前提とするように、常に政治的意見を持ってその実現についての定見を持ち、常に自分の意見を披露出来て他からの圧力に屈しないという実際にはあまりいそうにないいわば「政治的人間」の存在を当然の前提とすることになる。実際には他者に従属せざるを得ない被雇用者だけでなく注文主の意向に従わざるを得ない下請け業者的な中小事業者も実際には抽象的な個人であることは難しくはあるのだけど、それでもなお独立経営者であることの方が政治的に自由でありやすくはあるだろう。そこが掘り崩されると民主主義は危なくなる面はあるだろうと思う。


少し話は違うが、上司が部下に対して親身になってアドバイスをしたりサポートしたりすることは必要とされていても制度的な支えがあるわけではないので割りに合わない、というツイートを読んだのだが、それはその通りだと思うし、だからそれができない以上「部下を変える」ことは難しい、というのはその通りだと思う。

昔の中小企業の社長とかはその人の人生に向き合ってあれこれ世話を焼いたりする人がいたから恩義を感じる人もいたわけなんで、効率的に部下を動かすことだけを考えてる人に自分の人生預ける方向にものを考えるわけないだろっていうことではある。

結局「中間管理職」には部下の人生預けられるような責任は負えない。できるとしたらオーナー経営者だけだろう。これは教員でも同じで、生徒の人生背負っちゃうタイプの人はどこかで破綻する。制度的にそんなことできるようにできてないから。学校でそれができるのはオーナー理事長とかそれくらいだろう。

ということで結局同じ方向の話なのだが、つまりそういう「ちゃんと人の面倒を見られる」のがブルジョアであり、古典的民主主義時代の「市民」なのだ。だからこそ「人のあり方」に口出しできる。

それを「国家が面倒見る」というのが社会主義的な方向性なんだけど、それもまたやばい部分があるということはソ連とか見てればわかる。国家に生殺与奪の権を完全に握られるわけだから。

また「東京卍リベンジャーズ」とか読んでればわかるが少年院とか刑務所とかでの人間的な繋がりが反社会主義集団のある意味での資源になってるわけだよね。福祉を個人や家庭でなく国家が請け負うというのはまずいところも限界もある。

だからどんなに社会が変わっても、「人の面倒を見られる力のある個人」というものに結局は頼っていく人は多いし社会もそういう方向に行ってしまう面はある。それは名望家支配と言われるものなわけだけど。それが官僚支配やオリガルヒや新自由主義的大企業の支配とどちらがマシかという問題なんで、結局は「自立した市民がつくる市民社会」という建前を尊重した上で、その混合みたいな感じにしていくのが一番マシ(牽制し合う感じで)なのではないかと思うのだが、まだはっきりとは言えない。

ただ、民主主義を支えるのは人ではなく制度だ、みたいな方向に議論は行きがちだけど、私は人が民主主義を支えている面を軽視すべきではないと思う。シチズンシップを持った経済力も政治力もある個人を育てて行くことは、その国にとって重要なことだと思う。


自立した個人がしがらみなく力を競い合う的なアメリカの理想みたいなものは、なんというか個人が中間団体を飛び越して直接「神」や「正義」に結びつく感じなんでまあいわば「セカイ系」的なシステムなんだけど、そんなことできる国はアメリカしかないとは思う。国家などないほうがいいというようなアナーキーな考え方が世界最強の国家を支えているというのもパラドクシカルな話なのだが、そういうシステムを作り上げ得たのがアメリカという国なので、その辺のところはもっと研究されていいところだろうと思う。

アメリカ以外の国はどこも中間団体が国家を支えてるのが普通。なのだが、しかしアメリカも結局はメガチャーチとか「セカイ系的な中間団体」が力をもってきていることも言える。ポリコレ系・環境系・BLM系の団体なども結局は「個人が結集して「正義」の実現を目指している」点では「セカイ系」だと思うが、中間団体的なしがらみが少ないためにアメリカ初の社会運動が力を持ち得ているところはあると思う。


2022年6月現在、最大の問題国家はロシアなわけだが、この国は帝国主義的な妄想を再度咀嚼を始めていて「牛か!」という感じなんだが、牛なんだろうな。帝国主義的妄想も「鶏肋」というか、「もう食うところはないのに捨てるにはもったいない」みたいな感じがあるんだろうと思う。

しかし意外とロシア支持の声が世界にあるのは、「アメリカだけいい目みてるのなんで???」みたいな思いが原動力なのかなというところはあり、そう思っている人は日本にも世界にもいっぱいいるんで、ロシアは酷いことしてると分かっていても「心情ロシア派」みたいな人が湧いちゃう原因ではあるんだろうなと思う。

ただ、トランプ政権が倒れたことが恐らくはプーチンのウクライナ侵攻のきっかけの一つだったとは思う。「アメリカは弱っている」と多分思っていた。弱ってたって直接手を下さなくたってロシアよりは十分強いということはやっちゃってから思ったとは思うけど、ただ「直接手を下さないアメリカに負けるわけない」というのは多分ロシアの自負にあってそこで持ち堪えてるってことはあるんだろうと思う。

そうしたロシアにどう対抗するかという問題は、プーチンはガチで恫喝をかけてきているからその恫喝にどう対応するかという問題なんだけど、バイデンはそれには乗らないと明確にしててそれがパンチ不足を感じさせるわけだがアメリカが考えてる「本当の落とし所」がどこなのか、まだちょっとわからないので、結局戦況次第という判断をせざるを得なくなっていて、現状ロシアの侵略を憂え、非難する人たちにはウクライナを様々な形で応援するしかできないということになってしまっている。

「ロシアがやってきたことがシリアなどでは見過ごされ、ウクライナになって取り上げられていることへの疑問」というのは当然正当性があるわけだけど、実際にはシリアの時にはロシアを支持した人がウクライナの時にはウクライナを支持し、「シリアの時も酷かったのに」と言ってる人もいたりする。

そういう発言をする人は、その時その時の現状認識によって判断しているわけだから、ある意味バランスが取れてると言えなくはないのだけど、そういう意味でバランスが取れた発言というのは、状況が一変すると発言した当人から見ても時代遅れになってしまうところはあるということなんだろうと思う。

バランスを取るところに真摯さを見出すなら前言とはかなり違うことを言わざるを得なくはなるのだよね。でもまあそういう立場もあったほうがいいとは私は思う。世の中がみんな原理主義者になったら大変だから。ただ、はっきり前言撤回はしたほうがいいと思うけど、それをしながらその時に相対的に正しいと思うことを言うこともまた必要だとは思う。

「シリアがロシアのシマ」発言はまあ当時からどうかとは思っていたけど、「シリアの諸勢力でアサド政権が一番まとめる能力がある」みたいな意見は成り立ち得ないわけじゃない。どんなに北部勢力をアメリカが支援しても結局タリバンになったアフガニスタンと似たところはある。アサド政権の虐殺は肯定できないけど、他にどんな勢力がシリアをまとめ得るのかというと答えは今のところないというジレンマもある。

結局この問題が西側の主張のようにはいかないのは、イスラームには西欧近代の国際法秩序とは違う世界認識システムがあるということがある。同じようにロシアのやってることは19世紀帝国主義のセコハン思想だとは思うんだがロシアなりの主張はあり、中国にもそういうものはあるからそういう諸国と世界秩序をどう作っていくかという問題に結局はなるのだが、では日本はどうするかというと、国際法秩序に乗っかっていったほうがいいとは思う。

別の世界秩序システムを持った国とは結局妥協してくか力づくで従えさせるしかない(第二次世界大戦で日本やドイツはそうされた)わけだが、ロシアの側からその妥協を崩してきた今回の展開に十分有効な手が打ててないわけで、まあ今回も「世界のあり方は勝者が決める」という今までの歴史を繰り返すしか無くなってしまってはいるわね。

タイムラインを見ていたら最近取り上げられることの多い哲学者のスラヴォイ・シジェクがこんなことを書いていた。

https://courrier.jp/news/archives/291215/

シジェクの言ってることはつまり「西側は政治的リアリズムに立つのではなく自由と民主主義という偽善を貫け」ということだろう。多分今の局面ではそれが大事なんだろうとは思う。

リアリズム的にいえば「国際法秩序を守ることを貫くという<偽善>」こそが現状の日本の国益にも資するということだ。ロシアの言い分もわかるという心情論こそが現状では日本を危うくする可能性を招き入れる危険を考えた方がいいと思う。

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