ウクライナの東方典礼カトリック教会とヨハン・ピンゼル/「何かを欲しがること」が「生きる基本」:「創作の面白さ」もそこにあると。
4月30日(土)晴れ
昨日は昼前から荒れた天気だったが10時ごろ帰る時にはもう雨は止んでいた。11時半ごろには寝たのだが夜中にまた足が攣って目が覚めたので風呂に入って暖まった。朝はだいぶ冷え込んで、久しぶりに5度まで下がった。レコーダーのハードディスクがいっぱいになったので過去の番組をBDに焼きつつ消す前に見ておこうと思って日曜美術館のウクライナ美術の回を少しずつ見ていたのだが、18世紀リヴォフ(リヴィウ)の彫刻家・ヨハン・ピンゼルについて触れていて、興味深かった。
ピンゼルはどこで学んだのか全く分からない彫刻家らしいのだが、バロック的というかマニエリズム的な不自然なまでに体が捻られた描写が特徴的で、その独特な描写それ自体が目につくだけでなく、ウクライナの伝統(だという)木造彫刻であるというのも目を見張る感じがあり、キリスト磔刑像の腕などが大理石でなく木であることで出る質感がすごくリアルな感じがした。聖母マリアの顔の描写などはややプリミティブにも見えたが、彩色された木彫だからそうなる感じなのかもしれないと思った。
リヴィウは東方典礼カトリック教会、ローマ・カトリックの傘下でありながら正教の典礼を行うというミックスされた教会の中心であり、それは番組では合同教会と表現されていた。ユニエイトというらしい。
合同教会を調べていて山内昌之先生の10ミニッツTVの記事を見つけたのだが、これを読んでいてなるほどと思ったのは、ロシアは正教国家であり、ポーランドはカトリック国家であるわけだが、にしウクライナを支配したポーランドのもとでリヴォフの教会はローマ法王の至上性は認めるが典礼は正教のまま、ということを要求し認められたけどポーランド人にとってはそれは受け入れ難いことであった、という話。ポーランドとロシアの対立も宗教の違いというのはあったわけで、西ウクライナはそれを折衷した結論を出したが東ウクライナのコサック勢力からもポーランドからも睨まれる感じになったと。
しかしポーランド分割によって西ウクライナ≒ガリツィアがオーストリア帝国の支配下に入り、多民族多宗教国家のなかで帝政に支持されて安定したというのはなるほどと思った。
ウクライナの言語的・民族的・宗教的多様性というのは地域による地理的な多様性(西北部は森林・湿地地帯、東南部は草原地帯など)もあってとても面白いと思うが、そうした多様性はロシアからもトルコからもポーランドからも狙われて、一番鷹揚だったのがオーストリアだったというのはなんだか示唆的な感じがする。
庭先に出てみると気になっていた水溜りが水が引いて無くなっていて、その代わり昨日は綺麗に立っていた菖蒲が雨で倒れてしまっていたので、切って花瓶に生けた。土曜日はごみの日ではないのでゆっくり時間があるから職場に行って少し草取りなどし、車を少し走らせて田園地帯と諏訪湖沿岸を走ってきたのだが、田圃にはすでに水が張られていて、これから田植えなのだなと思った。
全然別の話なのだが、帰ってきてTwitterを見たらRootportさんのツイートで「「お話を退屈にしないためには、コップ一杯の水でもいいから登場人物に〝何か〟を欲しがらせろ」という格言はガチ。」というのを読んで、これはなるほどと膝を叩く思いがした。
確かに何も欲しがってないような感じを漂わせている、というか主張している感じの村上春樹さんの主人公たちも何故か料理ばかり作ってる。そして性欲がないような雰囲気なのにセックスばかりしている。つまりは実は欲望が強いのにそう書かないのが村上春樹さんのテクニックなのかもしれないと思った。
他にもいろいろ考えてみても、「欲望少ない系」として描かれる主人公でも、「日向ぼっこ欲」とかあったりもするし、「何考えてるのか分からない系」の主人公でも語り手または読者の知りたい欲が刺激されたりしてる。
実際考えてみれば、「何かを欲しがる」ということは「生きる基本」でもあるし、(何も欲しく無くなったらやばい)それを書くということは「生きるということを書く」ということでもあるなと思ったのだった。