ラジオレジェンドと「交剣知愛」。
2022年師走。
久々に和歌山県のラジオ局・wbs和歌山放送に呼ばれ、3時間近くの番組に出演した。全国11の民放ラジオ局でクリスマスイブからクリスマスにかけて展開される「ラジオチャリティーミュージックソン」。wbs版は今年37回目を迎えるが、その深夜3時から朝5時50分までのゾーンだ。
番組名は「寺門秀介・河野虎太郎 僕らはラジオでこんな曲を聴いてきた」。
同局の平日夕方「wbsニュース5」をはじめとした番組を担当する寺門秀介アナウンサーとはかれこれ10年以上の付き合い。2012年から2年間は、当時彼が担当していた夕方のニュース・情報ワイド番組に、ほぼ毎週東京から電話出演していたのだ。その寺門アナが、久々に「番組やらない?」と声をかけてくれたのだ。
寺門アナとはTwitter上で知り合ったのだが、話を聞けば生まれ育ちに似たところあり。年齢も一つ違い。お互い東京、自営業のセガレ、中高は私立一貫校…聴いて育ったラジオ番組にも共通点あり。という具合。で、今回は、クリスマス未明の3時間弱。結構長いよ、何やろうかねと。「だったらさ、俺たちがラジオで聴いた曲、いっぱいかけようよ」ということで企画を進めた。
実は話したいことがあった。
でも、音楽番組や我々のルーツのような話より、この番組の中で残しておきたい人の話が(私の中では)あったのだ。それが、2022年9月で、和歌山放送を勇退されたニュースデスク・中村作栄さんだ。1940年生まれ、つまり80歳をこえてもマイクロフォンの前でニュースを伝えていた方なのだ。
1954(昭和29)年に開局した和歌山放送、その開局3ヶ月前から和歌山放送に勤務し、技術の現場や報道記者などを歴任。1971(昭和46)年に和歌山で開催された第26回国民体育大会(黒潮国体)では、ラジオ中継の総合ディレクターを担当。定年後も和歌山放送のニュースに出演され、勇退前は、午前中のワイド番組「ボックス」内の「9時のニュース」に出演し続けてこられ、9月30日の放送をもって勇退された。
言うまでもなく、作栄さんは退職後もお元気でいらっしゃるとのことです。
ニュースはお国ことばのニュアンスで、冒頭はスタジオから見える窓の外の景色を描写し、県内のニュース(コロナ禍以降は前日の感染者数を伝えることが多かった)から、国内外のニュースを6~7分ほどで伝える。いわゆる「定時ニュース」だが、それは明らかに「作栄さんのニュース」であり、通信社から送られた全国ニュースでも、どこか個人商店の匂いがするような、そんなコーナーだった。
その、作栄さんのことを、寺門アナに話してもらいたかったし、私もエピソードを聞きたかったのだ。彼は会社の先輩、放送人の先輩として、さまざまなことを教わってきた。
地元で68年のラジオ人生
その「作栄伝説」のような話を、3時間弱の放送中の後半(私はゲストパーソナリティー側だが)、寺門アナに喋ってもらうことにした。今回は出役だが、こういうところが放送作家のクセが出てしまうが、まぁ、いいだろう。
技術者時代のエピソードも話してくれた。
剣道家としての顔をもつラジオ人
そして作栄さんは剣道の有段者。仕事をしながら稽古を続けていた。私が剣道など、武道をちょっとだけ齧っていたこともあって、寺門アナはこんな話をしてくれた。
「交剣知愛」である。
だが、剣道に熱を注いでいた作栄さんのエピソードは、それだけではなかった。
過去何度も、仕事で正月三が日に放送局にいたことはあるが、和歌山放送以外ではそんな人は見たことがない。一年は剣道とラジオで始まる。剣道が先のようですが。
ラジオレジェンドは、そこにいる。
日々の出来事と四季を伝え、一方でカラオケと剣道を愛してたニュースデスク。こうした話を伺って、私は少しだけ時間をもらって話をした。
俗に「ラジオレジェンド」と呼ばれる人がいる。深夜放送の時代を切り開いた人、その歴史を変えた人。語り継がれる爆笑トークを繰り広げた人、名曲を次々にかけたラジオDJ、そして大都市の放送局で長時間のワイド番組を長年続けてきた人……。一方で私は、和歌山の地で、毎朝9時にマイクの前に座り、ニュースを伝え続けてきた人もまた「ラジオレジェンド」ではないかと思う。そして、そうした人は各地の放送局にいる。
今や日本を代表するミュージシャンを育てた地方局のディレクター。あるいは、そのミュージシャンが局を訪れた際に雑談をする「レコード室のおじさん」がいたという話も聞いたことがある。そうした人々が、70年を超える日本の民間放送ラジオの歴史の土台を築いている。
肩の力を抜いて、丹田に力を入れて
「民放ラジオは、開局してすぐにテレビが誕生して、人気を持っていかれた。民放ラジオの歴史はずっと苦境の歴史なんだよね」と言った人がいる。この人もまた、深夜放送で一時代を築き、放送局のトップにまで上り詰めた人だ。無論、ビジネスの手法は180度変わっているし、甘っちょろいことは言ってられないし、結果出さないと大変な昨今である。
でも肩の力は、抜いてもいいんじゃないか。
その分、丹田に力を入れて、生活の中にあるラジオの形を見直して、アップデートしていく。歴史を受け継ぐ。まだやれる。へこたれるけど、嫌になること多いけど、作栄さんの最後の放送を聴いて、そして寺門さんと話をしてそんなことを思った。
和歌山放送、寺門アナと関わって10年余になるが、残念ながら私が作栄さんにお目にかかる機会はなかった。東京出身の寺門アナは作栄さんを「和歌山の父」と呼んでいる。ならば私は「友人のお父さん」と、勝手に呼ぶことにする。
9月30日、作栄さんは最後のニュースを読み終えた直後、「ボックス」に引き続きゲストとして出演し、同局のOBたちに見守られながら思い出話と今後を語った。そして「竹刀、振ろうかな、できるかな」とつぶやいた。クリスマスイブの特番、私のような小僧が言うのは僭越だが、一言だけ申し上げた。
剣道のことを伝えるために、俺は和歌山に行ったのかもしれない。
2023年も、どうぞよろしくお願いします。
【追記 2024.04.23】
この番組では、寺門アナと私の選曲だけで2時間50分を番組構成しました。作栄さんの話のあとに何をかけようか……選んだ曲は作栄さんが和歌山放送に入社した頃(1954年1月、開局の3ヶ月前)にアメリカのヒットチャート1位だった、プラターズ「煙が目にしみる〜Smoke Gets In Your Eyes〜」を紹介しました(※発売は前年の1958年)。開局記念日の特番などでは、当時を話すお1人としてゲスト出演されていた作栄さんだったので、当時のヒット曲をかけました。そして、押し迫った師走の夜明け前に、ラジオで聴きたい曲です。でも、作栄さんが好きな演歌のほうがよかったかな(笑)。
中村作栄さん、本当に、お疲れさまでした。