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河野美恵インタビュー(1)「私が出会った先生たち」

聞く人 企画編集ハヌマン 三浦キミ(本名三浦祥子)

人間国宝に質問する

―小さいときから絵が好きだったのですか?
河野 いえ、嫌いでした。ほんとに嫌い。(笑)
―ふうん。写生が面白くなかったのでしょうか?
河野 いえ、写生とかでなくて学校のお勉強ぜんたいに興味がなかったんです。興味があるのは食べ物とか、遊びでしたから、勉強なんかしないで遊びまわっているだけの子どもだったんです。文字を書き写すとか、何かを覚えるとか、絵を描くとかいうお勉強は少しも面白くなかったんです。

―あ〜、では成績が良くない子?
河野 そうです。以前、小学校時代の先生が兄に「あの頃美恵さんに付けた図画の点数を思うと身が縮みます」っておっしゃったそうです。でもそれは先生が悪いんじゃなくて、私が悪いんです。絵心はないし、「線をワクから飛び出さないように描く」、たったそれだけのことが私という人間はできなかったんですから。

―でも絵を描く人になられた。それは何かきっかけがあるのですか。
河野 最初に出会ったのは染色なんです。高校を出て、母の旅館を手伝いながらこれから何をしていこうかと思い悩んでいたら別府の生野洋裁学校にデザイン科ができたと新聞に載っていたから、そこへ入ったんですよ。日本画家の小野一郎先生が教えておられて、「河野さん、教え子が奈良で染色をしているけれど、今度大分へ帰ってくるから染色を習いませんか」と言って下さいました。それでその坂本智恵子先生にろうけつ染めを教えていただいたんです。夢中になって勉強しました。草や木が持っている自然の色彩は不思議でしょう? 自然が持つ色の世界に惹きつけられていきました。下絵には自分が好きな絵を描いてよいと言われたので、新別府の川べりに黄金色に実っている麦畑を描いて、それで染めて県美展に出したら、賞をもらったんです。うれしくてね。次の年も張り切って出品したのに今度は賞をもらえませんでした。なぜなのか? 去年のものと今年とどこがどう違うのだろうかという疑問にとりつかれて、とうとう審査員の生野祥雲斎先生に直接お尋ねしたいと思ってご自宅へ行きました。もちろん竹工芸の人間国宝だということは知っていましたよ。でも、是が非でもお聞きしたかったんです。お訪ねした祥雲斎先生は、学歴も実力もない18歳の私を一人前に扱って下さって、去年の作品には弾けるような力強さがあったが、今年のものにはその力強さがなかった、と話して下さいました。それで私はすっかり納得できたのです。
以来、私は作品を県美展には出さないで、祥雲斎先生のところへ持っていくようになりました。坂本先生から教わった皮の染色も、絞り染めのような工法を自分なりに編み出して、その作品を持っていくと「伝統工芸展に出してみないか」と言われました。そして「僕がそう言ったからといって入選するわけではないけれど」と付け加えられましたね。でも私は自分の中の何かわからないものを探していたので、伝統工芸展には出しませんでした。
何度もお伺いするうちに、面白い話もして下さいましたよ。家はどこかと聞かれて、別府市の鉄輪です、と答えたら、「バス停の下にお寺があるね」「はい」「お寺の境内に骨董屋が店を出していて面白いものがあったからときどき買ったよ」「あ、木原のおじいちゃんの店ですね。私も小さいころおじいちゃんが漆を使って螺鈿細工をつくっているところをじーっと見ていました」と思いがけない話になったりしました。祥雲斎先生のところへ伺うと、見聞きすることがみんな最高の勉強になったのですが、やがて先生が病気になられて行けなくなりました。私みたいな者にいろいろ教えて下さって、ほんとうに心の広い温かい方でした。

*小野一郎
日本画家 1923(大正2)年―1993年。大分県山香町に生まれる。東京美術学校日本画科卒業。新興美術院展会員。大分県美術協会日本画部長をつとめた。
*生野祥雲斎
工芸家 1904(明治37)年-1974 年。大分県で初めて人間国宝の指定を受けた工芸家。大分郡石城川村内成(現・別府市)の出身。


同じ線で染めるのも何だかな~

河野 うちの旅館を常宿にしておられた、もとは芸者さんという粋なお客さまが草木染めの旅行バッグを持っていらしたので、素晴らしいバッグですね、と言ったら、妹が仁科十朗という日展の理事をされている先生に草木染めを習っているのよ、とおっしゃったんです。その仁科先生という方は鎌倉に住んでおられるけれど福岡の大牟田に教室があって毎月教えに見えるというんです。私も習いに行こう、と思いました。
でも私は母の旅館の手伝いをしてお小遣いをもらう程度で、大牟田へ通う汽車賃や草木染めの材料を買うお金は持っていませんでした。どこかで稼がなければ・・と思っていたら、うちのすぐ下の安楽屋のおじさんが朝日小学校のPTA会長をしていて「美恵ちゃん、朝日小学校の図書館の司書に行ってくれんかなー」と言ってこられたんです。渡りに船で司書になりました。当時は司書といっても正式な試験があるわけではなく、仕事も新刊書が入ってきたら図書係の先生と一緒に読んでジャンル別に分ける、それだけでした。一日中だれもこないから、朝日小学校の図書館の本を徹底的に読み上げましたね。いろんな本がありましたよ。怖ろしい本も。

―うわ~。頭の中に朝日小学校の図書館の本が全冊入っているわけですね。(笑)

*仁科十朗 (にしな・じゅうろう)
画家。明治39年福岡県柳川生まれ。太平洋美術会西日本支部を創設。ろうけつ草木染めの染色教室『にしな会』を主宰し、全国に弟子を持って百人展は6回に及んだ。

河野 大牟田まで電車に乗って仁科十朗先生の教室へ行ったら、生徒さんがみんな凄いんですよ。ほとんどの方が洋裁学園の園長さんでした。まったく何もわからない私にみなさんが筆遣いから何から親切にやさしく教えて下さいましたね。仁科先生は長〜い竹の先に木炭をはさんで、大きな紙にすーっと曲線を描いて「はい、ここからここまでロウを入れなさい」とおっしゃる。私はわからないから「どうしたらいいですか?」と尋ねると「こうするんですよ。ロウの入れ方は隣の人を見て覚えてね」と言われて。
各自、七輪に火をおこしてロウ鍋をかけているんです。「はい、ここに〇と〇の薬品を入れて下さい」って言われたら、隣の人がしていることを見ながら覚えていくんです。
あの当時、教室に通っている全員が仁科先生の描いた線で染めて、日展とかいろんな展覧会へ出していましたね。私から見たらどれがどれか区別がつかないのに、審査員はどうやって判断するんだろなーと思いましたね。

―そろそろ”ワクにはまりたくない虫”が動きはじめて・・。(笑)
河野 ええ。教室に通いはじめて1年くらいたったころ、自分でデッサンしたものを持って行って「私、これで染めたいんですけど」と言ったら、イヤーな顔をされましたけど教えてくれました。(笑)
仁科先生の教室には2年くらい通いましたが、やはり染色の元になる絵を描けないとダメだなぁと思って、初めて絵を習おうと思ったんです。それで、いつも文具を買っている明石文昭堂のおじさんに「絵を習うとしたらどの先生がいいですか」と聞いたら、進来哲と岩尾秀樹という二人のお名前を教えてくれました。住所を聞くと岩尾秀樹という先生は上人町だから鉄輪から歩いていけると思って。私、車に乗れないので。
で、スケッチブック1冊買って、これが全部埋まったら持っていって見て頂こう、と思って。岩尾先生を訪ねました。
「染色をやっています」と言って、スケッチブックを開いて「これだけしか描けませんが、先生に絵を教えていただきたいと思います」と言ったら「週に1回、教室をしているから、よかったらきませんか」と言って下さったので岩尾先生の”樹の会”に入ったんです。このときたぶん20歳くらいだったと思います。

*岩尾秀樹(いわお・ひでき)
画家。1924(大正13)年大分県別府市に生まれる。東京美術学校(現東京芸大)工芸科に入学。昭和19年学徒動員で仙台予備士官学校へ入隊。1949(昭和24)年、国展で国画奨励賞。1951年、国画会会友となる。1973年別府大学教授。2013年、88歳で逝去。

岩尾秀樹先生と桧垣正喜

岩尾秀樹先生(左)と桧垣正喜さん。背景は河野美恵の染色作品。


宇治山哲平先生から無視される

河野 岩尾先生の絵画教室は2年くらいで閉じられたんですが、そのとき岩尾先生が「美恵さんは染色じゃなくて絵だね」とおっしゃったのと、自分でも絵の方が感情をストレートに出せる、と感じていたので、染色を止めて絵を描くようになったのです。染色は乾くのを何日も待たなくてはいけない、凄く根気のいる仕事で、その根気がいるところも好きなんだけど、自分の感情を表現するという点では、絵の方がパーッと出せると思いました。
それで絵に打ち込んで描いていたら、国展などに出した方がいいよと言われて九州国展にはじめて作品を出したんです。このとき入選して賞を受けました。展覧会後の打ち上げパーティが大分市の東洋軒で開かれたのを覚えています。その後、九州国展に出す人は国展に出さなければならないということで、国展にも出品しました。最初に入選したのは22、3歳のときだったと思います。このパソコンの作品集で『顔(18歳の裕子(ゆうこ)さん)』と題をつけたものがその頃の作品です。裕子さんは温泉山永福寺の娘さんですが、思春期の不思議な美しさがあったので描きました。
国展には4、5回入選していると思います。
国展に出す前に「下見会」というものがあって、作品をあらかじめ宇治山哲平先生が見て下さるんです。その年に出す作品がずらーっと壁にかけられていて、一点一点、宇治山先生が見て講評されるわけです。私も「下見会」に2、3回は出して講評を頂いていたのですが、ある年、それは私が26、7歳のころだったと思います。私の絵の前に立たれた宇治山先生が一言もおっしゃらないのです。無言でした。会場には、岩尾先生や別府大学の西村駿一先生や、松野良治さんなど国画会の方々がずらりとおられて、シーンと静まり返っていました。いたたまれないほど気まずい、冷たく緊張した空気が流れました。
宇治山先生は結局、「去年の作品の方が素直だった」と呟いて何も言わないまま次の作品の前に立たれたのです。完全無視。完全否定でした。
無視されるということは、酷評されるよりずっと辛いことです。もの凄くこたえました。屈辱的でした。そのときは、自分で良いと思ったから持っていった絵だったので無視されたことに腹が立って腹が立って、仕方ありませんでしたね。帰りに絵を引き破ろうかと思うくらい激しい怒りが込み上げてきました。
何年か後になって自分で突き詰めたら、その絵は何を描きたいか分からない絵だということに気づいたんです。あゝ、なるほど、宇治山先生が無視されたのは、こういう理由だったのか、と自分で納得がいきました。
けれど、そのときは怒りと恨みしかありませんでしたし、何よりも生命力を表したいという心があるのに、自分のやっていることは小手先でモノを作ろうとしているのではないか、という思いが湧いてきて、たまらなくて、悶々としていました。
そんなある日、ちょうどお昼ごろでしたね、旅館で母を手伝いながらシーツを換えていたらNHKのEテレで『現代演劇』をやっていたんです。暗い画面、背景は障子、そこへ白い着物を着た女の人が立って、いきなり「別れると言うんだねッ」と一言、言った。そのドスが効いた声が耳に飛び込んできたとき、わ~この人、生きてる!ともう心を揺すぶられるように感動しました。この人は小手先じゃない全身で生きている! これはぜひとも本物を生で観たい、聴きたい、と思ってすぐその劇団に電話をかけました。早稲田小劇場という劇団で、ドスの効いた声の主は白石加代子という女優さんでした。

*宇治山哲平(うじやま・てっぺい)
画家。1910(明治43)年、大分県日田市に生まれる。旧制日田中学卒業後、日田工芸学校で蒔絵の技術を習得。昭和14年より国展に油絵を出品しはじめ、昭和19年国画会会員。昭和46年第12回毎日芸術賞受賞。昭和46年大分県立芸術短期大学学長。同48年別府大学教授。昭和61年東京赤坂のサントリーホールの壁画『響』を制作。
*早稲田小劇場(わせだしょうげきじょう)
早稲田大学の学生演劇から生まれた。演出家の鈴木忠志が1966年に『劇団早稲田小劇場』を結成。喫茶モンシェリの2階を稽古場とした。1976年、活動の拠点を富山県利賀村に移す。現在の劇団名はSCOT。


草木染め動く作品展2

草木染め動く作品展タイトル用1280x670_2

本人写真1

画像5

「顔(18歳の裕子さん)」


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インタビュー(1)をお読みいただきありがとうございました。
インタビユー(2)では、河野美恵さんが早稲田小劇場に通い、ついに白石加代子さんをモデルにして絵を描き始めます。<白石加代子VS.河野ちゃん>
ご期待下さい。



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