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僕の少年野球指導の挫折物語① 20年の指導で学んだ色々なこと。

現在50過ぎの初老少年野球指導者です。

根性野球時代のど真ん中を体験した者であります。

中高は誠にありがたい(涙)指導者に恵まれ、
早朝練習
長時間練習
ケツバット
うさぎ跳び
水飲み禁止
以上、当たり前。

中学は、アンダーシャツは7分袖以外禁止!!
という謎ルールも。

卒業した時には、やっと終わった!という達成感。

大学はまさか受かると思っていなかった強豪大学へ奇跡的に入部。
しかし、レベルが違いました。

大学時代の僕の仕事は、のちにプロ入りする先輩の付き人がメイン。
あとは審判。

甲子園出たエリート後輩の試合でも審判やらされてました。

それでも野球を続けてこられたのは、
「周りは解っていないと思うけど、俺って絶対いいバッターなんだ!」
とお気楽に、まじめにそう思っていた勘違いがあっただけです。

そして大学で化けるどころか、一度も公式戦に出場することなく引退。

普通のサラリーマンとしての社会人生活に入りました。

社会人になってしばらくして、小学時代のソフトボールチームの恩師が体調不良となったため、監督就任の打診をいただきます。

まだ20代前半。ソフトボールチームの活動は土日休日。
仕事が休みの日は遊びたい!という思いも強かったころ。

だってやっと野球を引退できて、給料も有るし、彼女とかとも遊びたいし。。花金(死語)は夜の街で飲みたいし。。

それでも断り切れない弱い自分は、次の誰かがすぐに決まるまでという甘い口約束を信じ、まんまと引き受けちゃったのです。

チームは、僕の時代はそこそこ強かった記憶がありますが、
小学1年生から6年生までで総勢15名程度の弱小チームとなっていました。

3年生くらいまでの子でも6年生の試合に出場しなければ試合ができませんでした。

ただ、前監督(私の恩師)は既に70歳を超えてらっしゃる方でしたので、私にたいしての親御さんからの受けは良かったと思います(多分)。

朝からコーヒー出るし、弁当は準備してくれるし、たまにはお手製の豚汁が出たりしました。
飲み会は頻繁に開催され、若いからという理由ですべてごちそうになり、
昭和的 野球指導者向け接待をフルに経験してました。

しかも私は、一応大学野球経験の20代男子。
ノックは何時間でも打てましたし、たまにバッティング見せると尊敬の眼で見られます。
ランメニューだってどのお父さんにも勝てました。

私もだんだんと楽しくなってゆき、指導にも熱が入るように。

すると面白いもので、チームが勝つようになるんです。

今思うと当然です。
恩師に比べて若い私が練習の強度を上げたら前よりは勝てますから。

小学生ですから、ちょっと練習量を増やせばある程度上達します。
これは私の指導力ではなく、練習強度を上げただけです。

ただし、勝ち始めると親御さんたちの意識も変わり始めます。
「いつも負けていた相手に勝つって気持ちいいですね!!」

今思い返すと、選手は盛り上がっていましたが、それよりも親御さんがそれ以上に盛り上がっていました。

実はこの時、選手指導の大きな間違いの元が人知れず作られていたことは誰も気づきませんでした。

勝ちたいという大人の欲望の独走

しかし、ある程度までは勝てるのですがどこかで勝てないチームは出てきます。
まだまだ小学生。フィジカルの違いはいかんともしがたい現実があります。

戦略だけでは絶対に勝てない相手です。

するとなんとなく練習強度を更に上げるべく空気感に覆われ始めます。
特に親御さんたちの熱量がUP。

練習時間は早朝から夕方遅くまでに伸びていきました。

もともと、根性野球ど真ん中を歩んできた私もヒートアップ。

選手に対する言葉も激しくなっていきました。

しかし、そんな姿に周りの大人たちもそれが当然とばかりに同調していきました。

ただ、チーム内では厳しくても外からは良く見えていたみたいで
「あそこのチームの若い監督は生きがよくて、最近強いらしいよ」

噂は噂を呼び、数年で多くの部員が入ってきました。
勝つには厳しさが必要である!

レギュラー争いは激化し、試合に出場できない選手の方が多くなります。

いつの間にかレギュラー以外の子供たちは置いてきぼりとなっていったのです。

本日はここまで。
次回、その後いろいろな事件をきっかけにチームが崩壊していく様を描きますね。

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