『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』を読んで
こんにちは。高校5年生です。
660回目の投稿を迎えました。今回は、最近読んだ本で気になる一文があったので、ちょっとだけ深掘りしていきます。
読んだ本のタイトルは、『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』。著者は宮澤淳一さんです。2008年にみすず書房から発行されております。
私が気になった一文は、「ナルキッソスが自分自身の外側(投影、拡張)に恋をしてしまったように」という部分です。
ナルキッソスはギリシャ神話に出てくる人物ですね。私はエピソードしか知らないのですが、本書の33ページに概要がありました。
『ナルシシズム(自己愛)の語源にもなっている美少年ナルキッソス(「ナルシス」はフランス語読み)は、その美貌ゆえに、ニンフ(妖精)たちからも求愛されていたが、常にこれを斥けていた。やがて恨みを買い、復讐の女神ネメシスの働きかけで、泉の水面に映る自分の姿を自分とわからず心を奪われる。彼は恋焦がれ、憔悴し、息途絶える。その後、水仙の花に変わったとされる。』
(宮澤淳一『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』2008年初版発行、みすず書房)
割と知られているエピソードなのでご存知の方も多いのではないでしょうか。自分の姿に恋をするって、よく考えたらかわいそうな話ですよね。いくら好きでも自分と付き合うことはできないし、直接自分の目で顔を見ることもできません。見られるのは水面やガラス、鏡に反射した自分の像だけです。
この話を聞くと、多くの人は「ああ、ナルキッソスは自分に恋をしたんだ」と把握するでしょう。私もそうしました。しかし、本書ではナルキッソスは「自分自身の外側(投影、拡張)に恋をしてしまった」と書かれております。
言われてみれば間違いありません。先程私もお話ししたように、自分の顔は直接自らの目で見られないからです。恋をしたのは自分ではなく外側に映し出された像、投影、拡張だとみなすことができます。
しかしながら私には、投影、拡張という言葉がとても新鮮な視点に思えました。水面に映る自分を「自分とは別物」ではなく「自分の延長線上の自分」と捉えているからです。この2つは似ているようで全く違うものです。鏡に映った自分を「自分の延長だ」と考える人がどれくらいいるでしょうか。
本書では、テクノロジーは自分の延長であると説くシーンがあります。車に乗っているとき、車は自分の延長であると感じている人が果たしてどれほどいるでしょう。電車や飛行機やパソコンも自分の延長でしょうか?ならば自分の身の回りの世界は、自分の延長で溢れていることになります。
これ以上考えると頭がこんがらがってしまうので、「不思議だな」ぐらいにとどめておきます。皆さんも、気になる一文を見つけてみてくださいませ。
以上、「『マクルーハンの光景 メディア論がみえる』を読んで」でした。
最後までお付き合いくださってありがとうございました。
また次の投稿でお会いしましょう!