判断力批判

純粋理性批判、実践理性批判と言えば次は?
判断力批判ですね。はいはい。
カントの『判断力批判』とは、1790年に刊行された哲学書のことです。カントの批判哲学の第三部として位置づけられており、21世紀少年みたいなものですね。内容は、理性と悟性の中間能力である判断力について論じています。

判断力とは感覚的対象と概念的対象を媒介する能力です。感覚的対象とは、私たちの五感によって捉えられる現実世界のことであり、概念的対象とは、私たちの理性によって形成された抽象的な考え方のことです。判断力は、感覚的対象から概念的対象を導き出す能力であり、また、概念的対象を感覚的対象に適用する能力でもあります。

感覚的対象を例えると、目の前の花を見たとき、私たちは花の色や形、匂いなどを感覚的に捉えます。一方、私たちの理性によって形成された抽象的な考え方を概念的対象を例ると、「花」という概念は、色や形、匂いなどの感覚的対象を抽象化したものと言えます。
そしてこの判断力は、感覚的対象と概念的対象を媒介する能力です。つまり、私たちが感覚的対象から概念的対象を導き出す能力であり、また、概念的対象を感覚的対象に適用する能力でもあるのです。

例えば、ある人が、目の前の花を見て、「これはきれいな花だ」と感じたとします。この場合、その人は、感覚的対象である「花」を見て、概念的対象である「美しさ」を導き出したのです。
また、別の人が、旅行先で見た景色を見て、「この景色は、絵画のように美しい」と感じたとします。この場合、その人は、概念的対象である「美しさ」を感覚的対象である「景色」に適用したのです。

また、カントによれば判断力は二つの種類に分けられると言います。一つは、自然美の判断である快・不快の判断であり、もう一つは、目的の判断である目的論的判断です。

快・不快の判断は、対象が私たちの趣味に合致するかどうかを判断する能力であり、この判断は理性や悟性ではなく、純粋な判断力によって行われます。
つまり、私たちは、対象の客観的な性質ではなく、主観的な感覚や感情に基づいて、対象を美しいと感じたり、醜いと感じたりするのです。

例えば、ある人が美しい夕焼けを見て心が落ち着くという経験をしたとします。この場合、その人は、夕焼けという対象が自分の趣味に合致していると感じているのです。夕焼けという対象は、夕日や雲の形、空の色など、客観的な性質をたくさん持っています。しかし、その人は、これらの客観的な性質を判断するのではなく、夕焼けを見たときに感じた主観的な感覚や感情に基づいて、夕焼けを美しいと感じたのです。
また、別の人が、ある絵画を見て、気持ち悪いという経験をしたとします。この場合、その人は、絵画という対象が自分の趣味に合致していないと感じているのです。絵画という対象は、色や形、構図など、客観的な性質をたくさん持っています。しかし、その人は、これらの客観的な性質を判断するのではなく、絵画を見たときに感じた主観的な感覚や感情に基づいて、絵画を醜いと感じたのです。

目的論的判断は、対象が目的に向かって機能しているかどうかを判断する能力です。この判断は、自然界における対象の性質や関係を観察することで行われます。例えば、花は蜜を媒介するために存在している、というような判断は、目的論的判断と言えるでしょう。

例えば、ある人が花の咲く植物を見たとします。その人は、花の形や色、蜜の存在などから、花は蜜を媒介するために存在しているのではないかと考えます。この場合、その人は、花という対象が目的を持って存在しているという判断を下しているのです。

また、別の人が鳥の巣を見たとします。その人は、鳥の巣の形や大きさ、材料などから、鳥は巣を子育てのために使っているのではないかと考えます。この場合、その人も、鳥の巣という対象が目的を持って存在しているという判断を下しているのです。

カントによれば、自然美の判断と目的論的判断は、自然界と自由界をつなぐ架け橋となる能力です。自然美の判断は、自然界にも私たちと同じような美的価値が存在することを示唆しており、目的論的判断は、自然界が目的を持って存在していることを示唆しています。

『判断力批判』は、美学や芸術論、自然科学、倫理学など、さまざまな分野に影響を与えた重要な哲学書です。カントの判断力論は、私たちが自然や芸術をどのように捉えるのか、そして、私たちの存在の意味とは何かを考える上で、重要な示唆を与えてくれるでしょう。

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