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読書感想文【悩む力】姜尚中著
こんにちはコウカワシンです。
今回は、姜尚中(かん・さんじゅん)さんの著書【悩む力】から学ばせていただきます。
本書は、悩みを乗り切るための秘訣を夏目漱石(なつめ・そうせき)やマックス・ウェーバーなど偉人の例をあげ、「悩みこそが人生の深み」ということを知る本です。
著者の姜尚中さん自身も在日韓国人であることから自分の出自について、ずいぶんと悩まれたそうです。
ですが、「悩む人間」「苦悩する人間」はただ運の悪い不幸な人間というわけではないとしています。
本書では、人間誰にでも備わっている「悩む力」こそ生きる意味への意志が宿っているとし、夏目漱石やマックス・ウェーバーといった人生の大先輩の例をあげられています。
なぜ「悩む力」が人生に深みを与えるのか?
では、なぜ「悩む力」こそが人生に深みを与えるかを本書から取り上げてみました。
人生の岐路に真剣に向き合えるから
自分の価値観を変えるきっかけになるから
多様化する社会に対応する視点ができるから
人間悩むときというのは、ストレスやコンプレックス、人間関係などの外的刺激を抱えているときが多いと思います。
「他人から受ける刺激」「他人から見た自分」に対しての悩みや自分が置かれた状況によるジレンマは、なんとも耐え難いものがあるでしょう。
ですが、それにより自分の人生の岐路をきめたり、価値観を変えるきっかけにもなります。
それから、現代の多様化する社会に対応するにしても自分なりの視点が必要です。
今から約100年ほど前の明治になったころも社会がガラッと変わり、当時の人たちも戸惑ったそうです。
文豪夏目漱石もその中の一人で、彼が書く小説の主人公は、作品を通じて先の見えない社会に戸惑い人間関係に悩みを抱え、それでも健気に生きていくさまが見て取れます。
たとえば漱石の自伝的小説『道草』を簡単に説明するとこうです。
外国から帰った主人公健三は大学教師になり、忙しい毎日を送っている。だがその妻お住は、夫を世間渡りの下手な偏屈者と見ている。そんな折、かつて健三夫婦と縁を切ったはずの養父島田が現れ金を無心する。さらに腹違いの姉や妻の父までが現れ、金銭等を要求する。健三はなんとか工面して区切りをつける。
この物語の最後のシーンでは、健三が妻お住とのやりとりで次のように吐き捨てます。
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。
一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから、他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
しかし、お住は黙って赤ん坊を抱きあげ「お父様のおっしゃることはちっともわかりゃしないわね」と赤ん坊に接吻して物語は終わるのです。
漱石なりの悩みのしまい方というか、漱石の時代においても私たちが抱えうるような悩みと変わらないということなのです。
漱石の描く主人公で共通しているのは、みなその時代になにがしか不満を持ち、不満を持ちながら、どこかあきらめているところです。
そんな「末流意識」を持ちながらも悩みながら生き延びていかなくてはならない。このような姿は現代人とも重なりますよね。
ここで「自分の人生に意味があるのか?」を考えられるかどうかという「悩む力」こそが人生に深みを与えると私は思うのです。
「悩む力」を身につけるには何が必要か?
ただ悩むだけでなく、悩んだことを自分のプラスにしたいと思うのは誰でも思うことでしょう。
本書からそのような正しく「悩む力」を身につけるには何が必要かを抜き出してみました。
「何を知るべきか」「何をなすべきか」「何を好ましいと思うか」という価値観
自分なりの宗教観
悩んでも死なないという自分を守る強い気持ち
人間の知性は「真」「善」「美」の三つと関わっています。
「何を知るべきか」「何をなすべきか」「何を好ましいと思うか」という価値観を持つことでその人なりの「真」「善」「美」が整っていきます。
「自分なりの宗教観」を持つことも必要です。
信教の自由がありますので、何を信心するかはその人の自由なのですが、「信ずるに足るもの」であればそれでいいのです。
それはつまり、「自分を信じる」ということです。
したがって「自分なりの宗教観」とは、自分にとっての「一人一宗教」「自分が教祖」なのだということです。
「自分を信じる」ことができるなら悩んでも死なないという強い気持ちも芽生えるでしょう。
不安だらけで、壁にぶち当たりにっちもさっちも行かず気が弱くなることはあるでしょう。
そんなときに「死」へと魔が差すことがあるやもしれません。
しかし、移り変わりの速い世の中では、何もかもが「通過点」です。
心理学者のV・E・フランクルは第二次世界大戦中の強制収容所で過酷な扱いを受け悩みながらも「生きたい」と踏ん張りました。
そういう強い気持ちがないと人間は生き続けることができないのです。そしてせっかく今生きている意味を見いだせないまま死ぬというのも悔いが残るというものです。
またそのようなことで人間は悩むのでしょうけど、それは生きるために必要な学びだとすればそれはそれなりに満足いく人生であると私は思うのです。
どうすれば悩みとうまくつきあっていけるか?
人間は悩みから逃れられない生き物です。
どうすれば悩みとうまくつきあっていけるかを本書から学ぶと次のとおりではないかと感じたものが次のとおりです。
何が生きる力になるかを考える
「キリのいい自分」を見つける
一身にして二生を経る
漱石の小説『心』に出てくる「先生」は、自分が生きる意味を見いだせず自我の孤独を引きずったまま命を絶ちます。
自我を保持していくためには、やはり他者とのつながりが必要だと姜尚中さんは言います。
つまり、相互承認によってしか自我はあり得ないし、相互承認の中でしか人は生きられないということでしょう。
最後に先生は相互承認を求めて主人公である「私」に隠し通してきたことを洗いざらい告白しました。
なぜ先生がそれをしたかというと「私」を信じたからです。それでも先生は命を絶つのですが、たぶん自我の孤独から解放されたのではないでしょうか。
何が生きる力になるかは、人それぞれ違うと思いますが、「誰かに」「なにかに」つながりを求め続けることこそが大事だと思うのです。
そのためにも「キリのいい自分」を確立することです。
「キリのいい」とは、本書では出てこないのですが、「他者からの干渉を気にしない」とか「自分にとっての愛」などを自分なりに確立することが近道ではないかと感じました。
そのうえで、「一身にして二生を経る」という姿勢で歩んでいくべきです。
この「一身にして二生を経る」とは、福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)さんの言葉で、「二つの人生を生きる」という意味です。
福沢諭吉さんは幕末、明治維新という二つの世界観を見てこられました。希望もあったでしょうが不安の要素が大であったと予想がつきます。
移り変わりの速いこの時代はまさに日進月歩で何もかもが差し替えられていくことでしょう。
そういった時代に生きるには、「一身にして二生を経る」という姿勢で、ある意味ドーンと構えているほうがいいのだろうと思います。
何が正解で何が間違いかは誰にもわかりません。
ですが「悩む」ことで、自分なりに考え行動したことは後悔が少ない人生になるでしょう。
だからこそ「悩む力」が大事なのだと本書は教えてくれます。