思考と読書。気づきと感動。
思考を深く落として、考えて会話をすると、とても理屈っぽくなってしまう。
なんの予防線かわからず書くが、どの次元まで思考を深く落とすかによって、同じことへの回答でも逆になることは日常茶飯事である。
会話をしながら、「今こう答えたけれど、掘り下げて言うと逆だな。でも軽い会話でここまでの答えを求めてないだろうし、こういう話を始めると相手によっては長くなってお互い疲れるだけだし、まあいっか。」などという考えが浮かんでしまうことがある。
さて、最近購入後に一度も読んでいなかった「アンネの日記」をパラパラと読んでみたが、驚いた。
この年齢でこんなに深く考えていたなんて。聡明な子がいたものだ。だからこうして書籍として読み継がれているのだろうが。なんとなく読むのを先延ばしにしていたが、もっと早くに読めばよかった。
その後、別の書籍で「大人ってなんであんなに大げさに笑うのか理解できない。ホントそうだよね。」という子供同士の会話を聞いたという一文を目にした。そういえば、私も昔、小学校低学年くらいの頃は毎日思考に耽っていたことを思い出した。そして、数少ない、同じように考える子供と毎日大人に言えない「なぜだろう話」をしていたし、自分はなぜこんなに考えるばかりするのだろう、私は考えすぎなのだろうかと真剣に悩んでいたことを思い出した。
思い出せる範囲では、確か、宇宙について、霊について、なぜ生きているのかなどを話していた。
大人子供関係なく、「考える人」は沢山いるようだ。
無知の知という言葉の通り、私自身も「知らないということを知っている」と認識しているつもりだ。だが、それすらも疑わしいと自問することがある。
このように考える感覚を久々に思い出した。これは、会社員を辞めた今、思考する時間が十分にある余裕のある時に浮かぶもので、ものすごく激務で残業の多い職場にいたときにはなかった気がする。
ただ、これまで何度も周りから「そこまで考えたことがない。」「そんなと考えているの?」「考えすぎじゃないの?」と言われてきた。さらに、比較的何事も深く考える人間であると自覚していたことが、最近「繊細さん」という本を読み、社会的に特定の割合の人の気質だと定義され、自分がこれに属するのかもしれないと思い腑に落ちたというか、カテゴライズされ安心感を覚えた。
カテゴライズすることもされることも好きではないと思っていたが、私自身がなんだかふっと楽になったので、自分をその括りに一旦入れてみることにした。で、思考に疲れたら、「私はそういう人」とバッサリ切ってそれ以上考えるのを辞める理由にする。とにかく何でも自分が楽になれる情報を取り入れる。正しい正しくないは個人の考えなので、それは重要ではなく、自分にとって心地よいか悪いかだけが重要だ。
以前、司書の出張で初めて大きな海外の学会に参加した際、同行した大学助教授の方に、「私は新しいことを学ぶたびに、自分が無知だと、知らなかったと痛感します。」と話したところ「へ~、そんな風に思うのね。」と、ずいぶん驚かれた。そして、私は驚かれたことに対して、驚いた。
「知識を得ること」と、「気づく」ことは、全く別のことだとこれまで何度も痛感してきた。
知識を得ることは誰でもできるし、知識の深さは他人と比較することもできる。
でも、気づくことは、気づこうと思ってできることでもないし、得難い貴重なものだ。また、気づきとは、感動ともいえる。少なくとも私にとっては感動を伴うものだ。
そして、気づくことに優劣はなく、早いも遅いもなく、正誤もなく、常識も非常識も当たり前もなく、その人、一人一人の時間の流れの中で出会う貴重なものだと考える。
この気づきの衝撃は、一生続く固定概念などではなく、何度も上書きされ、次の段階の気づきがもたらされる。
そして、私にとって、この感動こそが生きる喜びであり、これからもこの感覚にたくさん出会いたいと思っている。
普段、気づきについて考えることはそうないが、慌ただしい会社員生活を離れ2カ月近くたち、ようやく思考が外的刺激に影響されないというか、落ち着いてきたように感じる。
また、何かを勉強し始めて最初に知るのは「自分はこのことを全く理解していなかった。この分野における自分の程度と言うものを知った」ということだ。
そして先日周りでも、興味のあることで関係者に会いに行き話を聞いたら、「奥が深すぎてショックを受けた。自分なんて足元にも及ばない。次元が違う」と。この時点でやる気を出す人と、諦めてしまう人がいるが、こういう人間の心が刺激を受ける場面に遭遇することが生きる醍醐味というか、楽しいと感じるので、他人のそうした話を聞くのもとても好きだ。
人の話で何が一番面白いかというと、一般的にあり得ない珍しい出来事や大成した話でなく、その人が何をもって心が大きく揺さぶられたのかということと、その時の心の機微だ。それを説明する際の言葉の表現はその人からしか出てこない、唯一のものであり、生き生きとしている。
人混みは苦手だし、大人数で集まるのは好きでないし疲れる。大体途中で気分が悪くなったり、翌日寝込んだりする。そのくせ、人の話を聞きたいという好奇心が抑えられず、人が集まるところへ飛んで行って嬉々として自分から積極的に話しかけ、話を聞いてくる。
二重人格だと思う。
でも人というのはそんな平面で語れるものではないから、みんな立体的でいろんな面があると思う。だから人は面白い。
最近時間ができたので、よく本を読む。読書は一方的なものとも見えるが、こちら次第で、著者との対話も可能だと考える。ある人が、「読書とは過去の英人と対話ができる唯一の方法」と言っていた。確かに本ばかり読んで生身の人間との接触なしでは、一方的なインプットで終わるかもしれないが、現時代を、様々な人と関わりながら生きている私たちが、時折深くダイブする感覚で読書をするならば、十分に対話となりうると考える。また、そう感じながらの読書はとても楽しく充実したものとなる。
勘違いかもしれないが、私は先週何度かダイブした。それはそれは心地よい心躍る時間であった。
これから、秋の夜長にますます読書時間が充実しそうだ。
窓を開けて、夜風を感じ、月を眺め、照明は暗めの温かみのあるオレンジ色で。
お供には、しっかりと煮だした三年番茶を。
ぶどうと梨があれば尚よし。
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