短編小説「父の書斎」
家の中のはずなのに、隔たりを感じるドアを三回ノックし、一瞬躊躇しながら開けた。
「ただいま、お父さん…」
『ああ、お帰り』
父の書斎だ。
今日も父は老眼鏡を下向きに掛けて、本を読んでいた。
ずっと変わらぬ居姿だ。
どこか安心する。
「お母さんが、『もうご飯できてるよ』だって」
『そうか、すぐ行くよ』
父は、そう答えたのにも関わらず、再び手に開いている本に目を落とした。
やはり、どこか掴みどころのない変わった人だ。
父は子供の時から無口で、物静かな人だった。
ほとんど人と関わっているところを見たことがない。
子の私ですら、あまり会話が弾んだ覚えはないほどだ。
母の夕食の盛り付けを手伝い、ちょうど机に皿が全て並び終えたぐらいで、父は姿を見せた。
「いただきます」
皆が口々にそう言って、食事に手を付け始める。
『向こうでの生活はどうなの? ちゃんとご飯は食べてる?』
「まぁ、ぼちぼち。こんな立派なものは食べてないけどね」
母は不満そうな顔つきだ。
『もっと帰って来てもいいんだよ? あんた、なかなか帰ってこないから』
「ちょっと、忙しくてね…」
忙しい。半分は本音だけど、もう半分はそうじゃない。
もてなしを受けるのは嬉しいけど、正直、することがなくて暇な時間を過ごすだけだ。
父は、会話を聞いているのかいないのか、黙々と食事を進めている。
その体は細く、どこに入っていくのかというほど、よく食べる。
寡黙で、細身で、大飯食らい。
何だか創作の登場人物のような人だ。
ふと母の方を見ると、何やらニヤニヤとこちらを窺っている。
『あんた、彼氏とかはどうなのよ~』
やっぱりだ。そんなことだろうと思った。
母は帰省するたび、こんな調子で聞いてくる。
「いないよ」
『ほんと~? モテてんじゃないの~? ほんとかな~?』
「もういいから!」
その時、父が立ち上がった。
『ごちそうさま』
『もういいの?』
『うん』
母は尋ねたが、父の前の皿にはほとんど何も残っていないし、私達の話の途中で茶碗一杯に白米をお代わりもしていた。
そりゃあ、もういいでしょう。
『体は壊してないか?』
突然の優しな声に驚いて見上げると、父はこちらに向かって暖かな目を向けていた。
そうだ…。いつも…。
「う、うん」
『それはよかった。じゃあね』
父はニコッと目を細め、自室の方へ歩いて行った。
忘れていた。
ずっと無口で物静かな人だけど、私を心配するときは、いつもその一言だった。
これが父にとって、最大のコミュニケーションであり、最大の愛なんだと。
「ごちそうさま…」
『行ってきていいのよ』
「え?」
『親は、子の考えてることなんて、全部わかるんだから。片付けはやっておくから』
「ありがとう」
私は、父の書斎へ向かった。
コンコンコン。
『珍しいね』
「ちょっとね…。入ってもいい?」
『もちろん』
「しつれいしまーすぅ…」
家の中なのに、自分にも聞こえないくらいの小声で言ってしまった。
この部屋には昔から、厳粛な図書館のような雰囲気を感じる。
匂いもまさにその通りだ。
『ほら、これに座って』
父は自分が座っていた高そうな背椅子を私に寄越すと、奥から取り出してきた丸椅子にちょこんと座った。
「ありがとう…」
私は気まずそうに座り尽くしてしまったが、父は変わらず手に持った本を読んでいた。
カチッカチッカチッ。
静かな部屋の中に、壁に掛けられた古時計のリズムが耳に残る。
そうだ。子供の頃はこの音が嫌で、暗い雰囲気も相まって、この部屋に来ることを自ら拒んでいた。
でも父は、いつもこうして、私の入室を受け入れてくれていた。
「ねぇ、お父さん」
『どうした?』
「私におすすめの本って、ある?」
『それならね、』
父は軽快に立ち上がると、数ある本の中から迷いなく取り出してゆく。
『これらはどうかな』
私は3冊の小説を受け取った。
「うん、読んでみる」
気が付くと、3冊すべてを読み終えていた。
普段本なんて読まない私が、こんなにも集中できるなんて。
静けさの中で、古時計のリズムが心地よかった。
父の気持ちがわかった気がする。
「もう読んじゃったよ。本ってこんなにいいものなんだね!」
『それはよかった』
父はまた、優しく微笑んでいた。
『気になるのがあったら、持っていくといいよ。父さんはもう全部読んでいるから』
「ううん、持っていかない。またすぐに、読みに来るから」
『いつでも帰ってきな』
時刻は24時を回った。
書斎の古時計が知らない音を立てる。
「お父さん、おやすみなさい」
『おやすみ』