短編小説「糸結荘 前編」
古びた木造アパートの一室。
埃っぽい空気が漂う中、私は大家さんと共に内見をしていた。
立地や家賃など条件がよく、即決も考えていたが、内見をしてみてよかった。
天井の隅や窓枠に蜘蛛の巣が張り巡らされている。
他を探すしかないか、と考えていた時。
『申し訳ございません。こんな状態で。すぐに綺麗にしますので』
大家さんは丁寧に、かつ手際よく蜘蛛の巣を取り除いていった。
『また何かあれば、いつでも呼んでください』
そう言って、電話番号を渡された。
蜘蛛の巣は気持ち悪かったが、大家さんの真摯な態度と行動力に信頼を感じ、私はこの部屋への入居を決めた。
入居から3ヶ月が経ち、新生活にも慣れてきた頃、毎日のように蜘蛛の巣が作られるようになっていた。
始めはその度に大家さんを呼んでいたが、毎度申し訳なさそうな彼女を気の毒に感じ、自分で対処することにした。
大家さんに相談すると、対処法や専用の掃除道具まで提供してくれた。
さらに3ヶ月が過ぎたある日の夜、いつもの手つきで寝室の蜘蛛の巣を取り除いていた。
すると、見たことのない奇妙な塊が蜘蛛の巣に引っかかっていた。
よく見ようと触れた瞬間、塊は弾け、無数の小さな黒点が床に散らばった。
それらはもぞもぞと、床を這って動いている。
よく見てみると、その黒点は全て無数の蜘蛛の赤ちゃんだった。
私の背筋は凍り付いた。
いつでも呼んでください。
その言葉を思い出し、パニックに陥りながらも、咄嗟に電話を掛けた。
「助けてください!」
数分後、駆けつけた大家さんは落ち着いた様子で、蜘蛛を駆除してくれた。
作業を終えた大家さんは、優しく微笑みながら言った。
『もしまた何かあれば、呼んでくださいね。ここはあなたの大切な住まいなんですから』
立ち去る大家さんの背中は頼もしかった。
毎日の蜘蛛の巣掃除が必要だけど、この“糸結荘”に住めてよかった。
こんなにも、住民のことを考えてくれる大家さんが管理している物件なのだから。