2025/01/14 諸悪莫作(しょあくまくさ)
様々な悪い行いをしない、という意味で思ったことを書きます。
はじめに
以心伝心
以心伝心とはいうものの、言葉というのは善悪を問わず心から発せられますね。言葉は心を伝える媒体なのです。
ですから言葉には善意がこもることもあれば悪意がこもることもあります。つまり心がけ次第なのです。
さて、一旦言葉に出したものは引っ込みがつかないですし、それを聞いた人が言葉に乗せて伝播すれば人の口に戸は立てられぬと申します。
その言葉を発する心が良いという場合ばかりなら人はつねに和気あいあいとすることでしょう。喧嘩も争いも果ては戦争も無いでしょうね。
この心というのがまた厄介なもので、相手に対して見下してかかったり、あるいは相手に対して卑屈になってしまったりすると、発した言葉や表情でそれを悟られてしまいます。
それにそのまま応ずれば見下された人になってしまいますし、卑屈な人にもなり得ます。
もちろん、相手もそういうやり取りが続けば「ああこうすればいいんだな」と無限の救われないやり取りに陥ります。
それがエスカレートすれば喧嘩、争い、不仲、刃傷沙汰になり、集団を巻き込めば地域紛争や戦争に発展する事もあるでしょう。心の持ち方はまさに、バタフライエフェクトかもしれません。
バタフライエフェクトと割れ窓理論
ある場所のバタフライ(蝶)の起こした風が集まって大嵐になるという仮説です。(「割れ窓理論」にもたとえられるかもしれません。)
バタフライエフェクトについていえば、結果が大きすぎて収拾がつかないたとえにはなるでしょう。
片や、割れ窓理論については、一カ所の窓ガラスが割られるとその周辺の窓を割る人達が増えるけれども、割られた窓ガラスを一つずつ修理していけば事が収束していくという対策付きの理論と思われます。
人の心模様に写る自分の像を変えることは容易ではありません。なぜなら、私たちもまた相手について今はいい顔をしているけど昔はこんなに悪かったと思うからです。心変わりしてくれても、記憶や印象まで動かすことはできないのです。
和顔愛語できますか?
だったら最初から和顔愛語で邪心なしに付き合えば良いじゃないか、と思われるかもしれません。
私が幼い頃に会って私にひどい目を遭わせた同級生達のことをつい思い出します。もう会うことも(会っていても気づかれないだけ?)ないのですが、なぜ幼心に悪意を持っていたのか、それはそれぞれの親がどういう人なのか、その子達に日頃どういう接し方をしているのか、によって変わってくると私は最近思います。
生まれ持っての悪人というのが通常あり得ない通り、やはり親や養育者の心が反映されているのかなと思われるのです。通常あり得ないような理不尽で厳しい接し方をする親を通して幼心に「人間はこう接すればいいのだ」というものを獲得していくのではないでしょうか。彼らの家庭は生まれながらにして有名大学や中高一貫校を目指させる逃げ場のない家庭だったとも記憶しています。それゆえに親にいい顔をして同級生に悪さを働くズルい子たちだったかもしれません(もっとも他の理由もあったとは思いますが)。
そう思うと、私の場合、親の期待が強すぎて弱い自分を演じざるを得なかったのでしょう、卑屈な人としてその子達のターゲットになってしまったとも今となっては振り返ってみるしかないのです。
偏見・差別の正体
個人的にはこういう関係だと思います。
しかしながら、これが国や民族や宗教や思想が絡むとどうなるでしょうか。私が院生時代の友達と話していると、彼はモサドとかの話になるといきなり、「ユダヤ人は危機意識が強い民族だ」という大きな話にしてしまうのです。旧約聖書時代から迫害と流浪によってそうなったのだ、と彼は語っていました。
確かに、どこそこの人種だからこうなのだ、というのは決めつけであり、相手を知ろうとしたりそれまで見えなかった面を新発見したりする態度ではありません。
そのように、私も含め、その人となりは心の内、そしてそこから発せられる発話という行動からしか窺い知ることはできません。
同じ時間をかけないとやり直せない?
よくいわれることで、今までが長い時間かけて意固地な性格になったから、同じ時間をかけていかないと良くならないという人たちもいます。
本当でしょうか?
最近になって耳にしたのは、悪さを働く人達がもう身近にいないのに、あたかも自分の頭の中に悪い記憶として棲みついている、それって本当にそうなのか、彼らの思うつぼで生きていないか、という主旨の意見です。
それまでかかった時間にこだわったり、相手の悪さ加減にこだわったりすると、本当に自分の心を大事にしようとしているのかという疑問も禁じえません。
諸悪莫作
要は、心の癖や傾向は人それぞれ同じものがないのですが、発話という行動をつかさどる心のあり方は誰も変えてくれるものではなく、思い立った自らが変えるものではないでしょうか。
そんなに簡単にできたら苦労はしないと思いますし、私も自分を振り返ってそう思うのです。
これ以上自他を言葉で傷つけたくなかったら、自らどうありたいかという気持ち、心の向きを見直してみたいなと思うのです。
今日のタイトル、「諸悪莫作」を掛け軸に見たとき、私が思ったことはそういうことでした。
2025/01/14 ここまで