名もなき茶道具には価値がない?
茶道具の価格設定の謎
抹茶碗を例に出してみる。
デパート上階の美術品コーナーはショーケース越しに低くて5万~10万、
人間国宝なら3桁のものが立派な桐箱とともに美しく並んでいる。
町のお茶屋に行けば3000~8000円ほどのなんてことない抹茶碗が並び、骨董屋やネットはピンキリだが、木箱もなし、作者も、いつの時代かもわからない茶碗たちが1000円均一でごろごろと転がってたりする世界。
茶を飲むためのただの道具がなぜこうなったのか、理由は戦国時代まで遡るのだけど、その話は今日はひとまず置いておく。
"名もなきもの"との出会い
話は変わって私自身。
"名もなきもの"に惹かれるのは、記憶を辿ると古物や骨董趣味の両親の元、
東南アジアの家具や日本の古い食器に囲まれて育った環境が大きい。
食事のときにお皿を選んで準備するのが役割だったり、
母が勤めていた小さな画廊は学校帰りによく立ち寄る場所だった。
ジャンル問わず目にしてきたアーティストの作品や本人も、
とにかく自由でユーモラスでへんてこなものも多く受動的に刺激を受けてきた。
「こんなおうちないからね」
と何かにつけて言われてはいたけど、その意味を本当に理解できるようになったのはつい最近。そんな私がひょんなことから茶道に出会い、目の前がぱーっと開けるほど感動を覚えたのと、同時に違和感もあった。
「自由なのに、自由じゃない」
「茶道は形式的で古い」というイメージの話ではなくって。
奥に隠れるとてつもなく自由な世界ということは承知の上で、
自分のお茶にトレースするのがめちゃムズイ、ということがわかってしまったから。
自由だけど自由じゃないのです。これうまく伝わるのかな。。
とにかく知れば知るほど、知識が深まるほど、ルールや形式に雁字搦めになっていく場合が多いと思うのです。
前記事のこれでもちょっと触れましたが、
"まともに道具全部揃えたら破産する問題"もあり、
私はこの正規ルートをくぐり抜けながらも自分のお茶の道を作っていくために、どうしたらいいんだろう?!と模索する日々が始まりました。
"名もなきもの"でどう表現するか?
そこで名もなき茶道具をどう生かすか、が個人的な最重要事項なのです。
(ようやく本題)
ブランドや流行に囚われずフラットな視点で道具の価値を見抜くこと、作ること。
それが本当の審美眼であり、お茶の本来の面白さじゃないかと思うのです。
道具1つではそれ以上の価値を作り出せないからこそ、
場を作り、表現を工夫し、最大限楽しませる演出をする。
そういう視点でお茶の世界をもっと楽しみ尽くしていきたい。
そういう意識でお稽古に励んでいくと、必ず行き着く先は利休。
「物がない中でいかに遊び尽くすか」を極めたプロに学ぶことはとても多い。
こんな視点で関われるライトなお茶が、これからもっと増えていけば楽しいなー、と思って道具の話を書いてみました。
今日はここまで。