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夏の恋人

京都は僕にとって夏の恋人のようなものだ。

東京への旅立ちの日がもう明日まで迫っているかのような気がしては、しきりに散歩をしたくなり、近所をうろついている。

新たな土地へ旅立つ時の寂しさは普遍的なものだろうが、九州生まれの僕は、4年前に感じた寂しさとは違った類の寂しさを感じている。

4年前は赤ん坊が母乳から離れ、歩き出すような自然さを纏っていた。
そこに思考は存在せず、ただ新しく始まる日々に光を感じていた。
それで言えば今回は全く別物である。
明らかに自分の選択であり、恋人との別れのような寂しさが強い。

東京へは、行かなくてもよかった。
ここに留まることもできた。

人生を長い目で見たときに東京で過ごした20代はきっと貴重なものになると考えての決断だった。
今思えばこれも、赤ん坊が玩具を欲しがって駄々をこねるようなことなのかもしれないと思う。

幼少の頃から新しいもの好きで、こだわりが強かった僕は、「新卒で働くなら東京でしょう」と、21歳までにまごうことなき先入観を手に入れていた。

今はただ、田舎の故郷を離れるときになかった寂しさを引き起こすものをぐるぐると考えながら出町柳の三角州でボーッとしている。

頭の中。記憶をたどる。

僕は、故郷にないものを京都で見た。
百貨店や最新のファッション、お洒落なイタリアンから高いビルまで、あらゆるものを京都で記憶した。

常に人が出入りし、全国から人が集まるマンモス大学に入学したおかげで、気の合う友人を全国に作ることが出来た。

さらに好都合だったのは、入学時に数人の友人を除いては、知り合いが誰もいなかったことだ。

おかげさまで素直に”自分”でいることができた。
田舎で素直に自分でいることの難しさは、田舎出身のご友人に確かめてみて欲しい。
いやもはや、自分の素の姿とはなんぞやといった問いすらも立ちそうなものだ。
どの自分が楽かは環境により変わるものだ。
僕の場合、幼少期から大学まで同じ地域で過ごそうものなら、過去の延長線上にしか見えない人生を憂う瞬間は絶えなかったことだろう。

つまり、本当の”自分”としての記憶がたくさん眠っている京都には、恩義が尽きないということだ。

その恩義の中には、泥酔し嘔吐した経験や名前も知らない女と朝を迎えたこと、講義を抜け出しラーメン屋へ駆け込んだことなども含まれている。
こうやって思い出していると、僕はえらく大学生というものを満喫したものだと思う。

そして何よりも大きいのは、自然と歴史、現代の融合ではなかろうかと思う。
いくらもがいても、田舎出身であることは変わらないことであり、自然が身近にあることは、良かった。
歴史と現代の融合は、受験生時代に日本史にのめり込んだ新しい物好きの僕を大いに満足させた。

大学4年で履修表が空白になると、しょっちゅう出町柳に出かけて本を読んだ。
その終わりには河原町へ出かけ、お気に入りの古着屋に入り浸るなどした。

とにかく等身大の自分で生きている実感を得ることが出来て、好きだ。

こんなことを考えていると、アップテンポな音楽が耳障りになり、メロウやバラードが聴きたくなってくるもので、プレイリストを切り替えた。

SHISHAMOの「夏の恋人」が流れてきた。

半年前の夜に何度も何度も聴いた曲だが、1月の今日にどうもフィットしているような気がする。

「いつまでもここにいたいけど、
ねえ、ダメなんでしょう?」

という一説が妙に腑に落ちたのだった。

歌詞のような、安い生活の中で楽しい記憶を増やそうともがく若い心が手に取る様にわかった。

振り返れば僕の大学生活はまさにそれだった。

高い買い物をしている訳でもないのに金は無く。
100円のコーヒー牛乳と板チョコと古本で楽しんだ日や、鍋とカップラーメンを持ち寄り原付で清滝川へ行き、野営をして1日を過ごした夏、大阪で飲み明かし、始発で1限を受けた日が、今や眩しくて直視できないほどだ。

エモい。と言えばそうかもしれない。
高尚にする気はないが、もっと倫理的で文化的な意味を持った言葉を選びたい。

京都は僕を甘やかす天才だ。
安らぎを与え、未来を見せてくれる。
このままでもいいのではないか、京都で暮らして、一生大人になれなくてもいい。
歌詞につられて、こんなことを思ってしまった。

懐古する時間は愛おしさを増すばかりだ。

それでも僕は東京へ行く。
京都はいずれ定住することにして、東へ向かう。

今は、Mr.Childrenの「星になれたら」が僕の代弁者だ。

西日に照らされた川面が細かく振動するようにキラキラしている。

きっと3年後は多摩川でこんなことを思っているのだろうか。

そう思うと滑稽で笑えた。

若さで加速した感受性が涙を呼んだ。

冬枯れした芝生の上で僕は、大人になれないでいる。

雲一つない淡いブルーの空が恥ずかしいくらいに僕を照らした。

きっと僕はあと少しだけ甘えていい。
そして来年の僕は美しかった日のことを忘れないでいて欲しいと願った。

原付にまたがった。

帰り道は、あのバラードを口ずさみながら帰ることにした。

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