「生きる」と「書く」
僕にとって「書く」ということは特別大切にしたいことだ。
僕の「かく」の歴史
それは、ある人にとっての酒、ある人にとってのカラオケのような存在で、ストレス発散であり、生きがいでもある。
始まりは小学生の頃。
好きだった漫画のイラストが書きたくて毎日イラストを”描い”てた。
テストを早く解き終わったら絶対に用紙の裏に落書きしてたし、テストは0点だったけど、イラストが上手に描けてたから20点もらったこともある。
中学生になるとお絵描きと同じくらい文章を”書く”ことにハマる。
今思えば厨二病だったなって思うんだけど、歌詞(のようなもの)をひたすらに書きためていて、ノート3冊分(400ページ分)くらいある。
読み返すと恥ずかしくなるんだけど、その日に起こったことや感じたことを綺麗に1ページにまとめていて、我ながらすごいと思う。
高校生になって、頻度は減ったけど、文章を書くことも、絵を描くことも常に身近だった。
大学生になると、noteというツールに出会い、いろんなことを考えるだけのキッカケ、出会い、時間ができたから、書くことが加速した。
モヤモヤした気持ちや、あ!これってこうなんじゃない?って思ったことがある日は、パソコンの前にずーっと座っていた。
歳を重ねるにつれ、「描く」が「書く」になってきた。
「書く」メンテナンス
別に文章や絵で生きていきたいとは思わないし、お金をもらえるほど上手いとも思わない。
けど、なぜか知らないけど、文や絵で表現することは続けていく気がする。
自己顕示欲や自己承認欲求が人よりも強いと思うから、とにかく表現したいだけな気もするけど、もっと”生きる”ことに直結してるような気もする。
ラジオアプリに吹き込んだり、友達に電話すればそれで済むことだし、わざわざ時間をかけてまでやることでもない。
でも、文章にすると、なんというか心が整っていく感覚がある。
僕の大好きな本「心を整える」の真似じゃないんだけど、やっぱり心を整える作業は大切だと思う。
ものを書くためには、
・書きたいことがある
・ある程度思考が整理して、それを文章化できる時間がある
っていう条件が必要なんだけど、そのどれもがのんびりした時間の中にしか存在できない。
鬼のように多忙な日々を送っている時は文章なんか書きたくもないし、書きたいことを整理なんて出来やしない。
基本的に日々を忙しいものにしがちな僕からすれば、「書く」という趣味は心のメンテナンスにもなっている訳だね。
憧憬の的
僕は昔から自伝が大好きだ。
スポーツ選手から、歴史上の偉人、ミュージシャンまで幅広く読んだ。
今でも人の人生にはめちゃくちゃ興味がある。
だから、小さい頃から漠然と「自伝書きたいなあ」なんて思っていた。
きっと需要なんてない。
読んだとしても一部の友人と親族だけになると思う。
けど、自伝を書きたい。
そのためにも、色んなことをやって、色んなことを考えなければいけない。
「死ぬまでにやりたいことを全部やる」「自伝を書けるような人生にする」は中学生あたりから強く思っていたことだ。
大好きなイブラみたいに、「国を動かしたぜ。」って書ける日はこないかもしれない。
けど、自分の中で国を動かしたくらい大きな出来事に出会い日は来るかもしれない。
そんな時のために、心情や思考を書いとかないといけない。
そんな風に考えています。
言霊を信じますか
僕は言霊をめちゃめちゃ信じています。
言葉には力、運、命が宿ります。
言葉には、ある時には人を生かし、ある時には人を殺す力だってあります。
だから僕は、言葉選びにはかなり拘っています。
どうやったら相手の印象に残るかな。
どうやったら相手を傷つけずに伝えられるかな。
は、脳内で毎日繰り返す言葉です。
(それでも後悔したり、上手くいかなかったりすることがあるので、その時は絶対に反省し、謝るようにしてます。)
僕は、日本語は美しいと思います。
僕の理解では、日本語は言葉の響きと、その場に合った言葉が細かにあることが魅力です。
その美しさや魅力に触れることがとても楽しいと感じるんです。
好きな女優の写真や動画をずっと見てしまう様な感覚と似ています。
美しい言葉にもっと触れていたい。
そんな言葉を産み出す側に回れたら。
そんな風に思います。
「生きる」と「書く」
僕はこれからも文章を書いていきます。
まだ何も成し遂げていない若造の文章に需要があるかと問われれば、答えは「No」ですが、僕は生きるために書いて、書くために生きるんです。
運よく令和を生きているので、noteを読んで感想をくれたり、たまに誰かの力になっていたりします。
もっと言葉を大切にしたい。
もっと美しい言葉を使いたい。
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