エイリアンズ
人の心とは、理解されうる限界を常に突破しながらあるものだ。
例えば、長きを共にした夫婦であっても食い違いは起こる。
Mr.Childrenの言葉を借りれば、「想像を超えて心は理解し難いもの」である。
私は大いに前向きな人生を歩んできた。
偉人の伝記に憧れ、"絶望"を解ったフリをして「死にたい」と言ったことはあったが、真の意味で絶望したことはない。
人並み以上に頑固な幼少期を過ごしてきたが、
それらは結局今の今まで僕の本質として残り続けている。
と、言っても、私が頑固なのは「私」に対してなのだが。
とかく、自分の思った通りに行動しなければ気が済まないのだ。
自分の思った通りに振る舞わないと、「私」は死んでしまうのだ。
つまり私は、「私」に対して「私」として在ることにのみ執着し、束縛したのである。
どんな「私」を思い描いたかといえば、
幼少期に読み漁った天才たちみたく突飛な発想を生み出し、理解を超えた行動を当然と言わんばかりに行い、
自分のあるべき姿へ導く声のみを信じて生きることだ。
私の意思決定基準は、「格好いい」か否かである。
この曖昧さが重要なことで、人間らしい醜さを孕む。
私の前向きさも、突飛な発想も、全てはこの意思決定基準によるものである。
私の記憶では、幼少の頃よりそれは変わらず、
板についた行動様式として体内に存在するのだ。
23年の人生を振り返ると、
それにて理解し難い場面に出くわすことも多かった。
何故愚痴を吐くのだろう。
何故心を傷つけようとするのだろう。
私には理解できなかった。
不意に誰かを傷つけてしまった経験はあれど、それを故意に行ったことは、神に誓って無い。
胸ぐらを掴み、壁に打ち付け、
問いたい場面がいくつもあった。
一般論として、過去を美化する雰囲気を感じたことはないか。
「あの頃はよかった」
酒や煙草と共に居酒屋で何兆回と放たれた言葉である。
正気か。
今を生きてはいないのか。
今に絶望しているのか。
そんな自分でありたいのか。
幾度となくそんなことを考えた。
理解できなかった。
懐古の気持ちがない訳ではない。
同窓会では、大いに思い出話に花を咲かせた。
しかしそれは、「あの頃"も"よかった」だけの話であり、過去に執着するものではない。
毎日のルーティンワークにうんざりしているのならば、それを変えようとはしないか。
環境に不満があれば、変えようとはしないか。
親や法律に守られ、縛られていた学生時代よりも、
自己責任の下で最大限の自由を謳歌できる今の方が良くはないだろうか。
では、良くない今になぜ無理矢理満足しようとするのか。
会話をすれば愚痴が流れ出すことが当たり前なのか。
このような気持ちを抱くたびに、私は疎外感を感じたのである。
過去を肴に飲む酒は、
私を大いに悲しくさせた。
では、私はなんの苦労もしていないのかと言えば、
そうではない。
人並み以上に苦労はしてきたつもりだ。
ただ、”苦労”を苦労と思うことが出来ない。
苦労というものがあれば、それは私にとって食後のショートケーキと同じ意味で理解されている。
実際のところ、成長の糧、未来への踏み台程度にしか認識しておらず、待って望んだものですらある。
過去は変えられる。
今、この瞬間に蠢く未来によって塗り替えられる。
理解出来るだろうか。
苦労を期待し、茨の道を選びぶのだ。
私が私らしくあるために、
自らを地に落とすのだ。
あなたにとって私はエイリアンかもしれない。
私を「夢想家」だと思うのならば、
きっと私はエイリアンなのである。
前述したような周囲との不和や違和感をチューニングする必要もないが、私は訴えたい。
やりたいことをやりたい。
夢を叶えたい。
好きな人に囲まれていたい。
笑顔でいたい。
健康でいたい。
これらの欲望はわがままだろうか。
これを私は人生と呼んでいる。
やりがいも、お金も、
全部自分で手に入れる。
自分だけの道を自分だけのスピード、自分だけのルールで突っ走る。
胸中に存在する圧倒的なエゴイズム。
そんな人生に彩りをくれるのはいつも他人であり、
偶然は、予想していなかっただけの必然である。
傷つこうとありたい姿であり続ける。
全てはあなたの思考次第。
私は、街の中に溶け込む、
明るいエイリアン。
いつかは手を取り、
共に星を見よう。
私は、東の空の一番星で待っている。
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