アステカ王国に存在した16kmの巨大建造物「ネサワルコヨトルの大堤防」
情熱とサボテンの国メキシコ
北アメリカ大陸に位置し、首都はメキシコシティ。おのずと名の知れた国のひとつである。この国では昔、現在のメキシコ人の前に先住民が住んでおり、この地にやって来たスペイン人は彼らとメキシコの地を植民地支配することで繁栄を得た。
そんな植民地時代も時は過ぎ現代。独立からさらなる混乱を経て彼らは力強くメキシコの地に生きている。今回はそんな彼らの首都であるメキシコシティ・・・その下に眠る、巨大な街と消えた湖。そして街を支えた大堤防について学ぼう。
メキシコシティの下にはテノチティトランと言う都市があった。これは、歴史を聞き齧った人間であれば少しは聞いたことあるだろう。メキシコ中央高原に存在したメシーカ人の都市国家。彼らは強大なアステカ王国を形成しメキシコ高原から太平洋沿岸、メキシコ海沿岸、そして一部はユカタン南部にも触手を伸ばした。
しかし、メキシコシティ一帯が実は元湖であったと知っている人はどれほどいるであろうか。
大雑把にテツココ湖と呼ばれるその湖はかつてメキシコ中央高原に位置し、メソアメリカ文化の重要地帯であった。この湖の周囲には数多くの都市国家が立ち並び、アステカ王国を形成した。三都市(トラコパン・テツココ・テノチティトラン)も数あるうちの一つである。
その湖の真ん中で栄えたのがテノチティトランであり、この都市は概ね5km四方の島であり、最盛期に人口20~30万人、これを見たコルテスはセビリアやコルドバにも劣らない町として評価し、当時の世界的に見てもテノチティトランの繁栄を超えるものは多くなかった。
また、このテツココ湖は特殊な湖であり、湖によって水質が変化した。北部に存在したテツココ湖・スンパンゴ湖・シャルトカン湖は塩湖であった。しかし、南部のソチミルコ湖・チャルコ湖は淡水湖であった。この違いと言うのは、重要な問題であった。
アステカ王国ではチナンパと呼ばれる伝統的な農業が行われていた。木で作った縁に湖の底にあるミネラル豊富な泥を掬い上げ入れ、それを肥料として畑を作る。この農業方法は効率が良く多くの収穫物、迅速な成長が見込まれた。しかし、チナンパによる安定的な農業は塩湖では難しい。これはテノチティトランの位置が災いした。
チティトランはテツココから少し離れていたおかげか規模は小さいながらチナンパを行うことができた。しかし、雨季になると湖は増水し淡水と塩水が混ざりあい、農作物に被害を与えた。また、増水により町全体が浸水のリスクを負っていたのだ。しかし、ある時を境にこれらの問題は解決へと向かった。
それがテツココ王ネサワルコヨトルとテノチティトラン王モクテスマ・イルウィカミナ(モクテスマ1世)が共に作り上げた「ネサワルコヨトルの大堤防」の建設である。
この大堤防は16km以上にもなる堤防であり、これの建設によってテツココ湖は分断され新たに人口湖のメシーカ湖が生まれることとなった。
石と木材だけと言う単純な構造で作られたこの大堤防は、テノチティトランの発展に大いに寄与し、テノチティトランのチナンパは拡大した。また、モクテスマ王はさらにより効率的に淡水を得るために水道橋の建設、各地に迅速な移動を行える連絡網の建設など公共事業を推し進めた。これは結果的にテノチティトランがテツココを上回る力を手に入れる要因の一つとなった。
最終的には三国同盟成立当初のテツココ優位な力関係は崩れ、テノチティトラン一強。アステカ王国がメシーカ王国と呼ばれる一因を作ることとなる。
テノチティトランはその立地のために治水工事を頻繁に行い、人口湖であるメシーカ湖、そしてネサワルコヨトルの大堤防、そして水上都市を作り上げた。彼らの技術力と治水能力は現代から見ても目を見張るものがあるだろう。
テノチティトラン。500年前先住民であるメシーカ人によって建設された魅惑の都市国家。これを見ているあなたも興味がわいてきたのではないだろうか?
2024/1/13 金蔵皇栄
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