疲れたんだよ
あんなに好きだった彼のことは一ミリも考えていない。思いも出さない。だけど新しい恋に向かい始めているわけではない。もうどうでもいいんだ。
彼から久しぶりの連絡は今日の夜電話ができるかという質問だった。数カ月前までは、私の予定なんか気にせずに連絡をかけてきていた。
彼の連絡に十二分ほど時間を空けて返事をした。
「できるよ。時間は?」
彼は五分ほど空けて返事をしてきた。
「九時半くらい?」
「了解。」
時計を見るとちょうど正午を指していた。私は九時半までに課題を終わらせようとパソコンの前に座った。彼は知るはずもないが、私は絶賛期末考査中である。課題を開けた瞬間にスマホが光る。嫌な予感がした。
「今からできる?」
そうだ。彼には癖があった。彼は自分で決めた約束も二人で決めた約束も守らない。いや、自分の気持の変更とともに約束も変える。そんな人だった。
「できるよ。」
すぐに返事をするのはいかにも狙ったようだ。私は少し時間を空けて返信した。
「ごめん、もうちょいしてからにする。」
そっちから言ってき…と思いながら、私は画面を見てムカムカする気持ちを抑え込む。
こんなことが起きるのはいつものことだ。自分で押さえつければ誰も傷つけなくていい。
彼から電話がきたのは予定変更をした連絡から一時間ほどたった頃だった。
「言いたいことがあって。」
彼の声の後ろには公園で遊んでいるという小学生の奇声が響いている。私は思わずツッこんだ。
「いや、恐竜でも飼ってるの?」
「つっこまれると思った」
彼は笑った。いかにも君のことは理解しているよと言われているようでムカムカする気持ちをまた抑える。その前に小学生のいる公園で電話をかけてくることが理解できないが、ここはスルーしよう。
「それで、本題だけど…」
彼は話しながら申し訳なさそうに謝る。理解ができなかった。私は彼に謝ってもらうようなことはしていない。何度も謝る彼に、またムカムカする気持ちを抑える。彼に好きな人が出来たからなんだ。それが元カノを忘れられなかったって、それがなんだ。私には関係がない。
だって、私たちは付き合っていない。正確には数か月前にお別れをした。そんな私たちだからだ。元カノを忘れられない報告は私に、もう俺らには可能性がないよと宣言されているようなものだ。私はまたムカムカした。
彼が何番目の元カノのことが忘れられないのか、恋愛なんかしている暇あるのか?そんなことどうでもよかった。ただ彼は、君はまだ俺のことが好きなんだろう。でも俺らはもう終わったんだ。というスタンスにものすごく腹がたったのだ。
…その前にそんな真剣に話してくるくせに人通りの多い公園で話をしてくるなとまず言ってやるべきだった。
その後、彼は何度も私に、最後に言いたいことはないかと聞いてきた。そんなものあるはずない。まぁ、折角電話をかけているのだから直接文句の一つや二つ言ってやろうとも思ったが、ぐっとこらえた。特に未練もなく終始落ち着いていた私は、最後くらい物分かりの良い子でいたかったのかもしれない。
電話が切られた画面を見ると通話時間三分の文字。頭の中を駆け巡った言葉たちは一つも彼に届くことなく消えていくはずだった。そう、消えていくはずだった。
私は彼にもう一度電話をいれる。電話は切られ、彼からは「?」の文字。
「言われっぱなしは嫌だから文句でも言おうかと思って。」
「ごめん、もうちょっと電話はあとにして」
あれから一時間たったが、彼からその後返事は来なかった。抑え込んでいたムカムカが堪えきれなくなり、彼に最後の連絡を入れる。
「イライラしてたけど、もういいよ。電話もしてこなくていい。」
これきり彼のことでムカムカすることもなくなるだろうと、真の心からすっきりしていた。そうしてスマホの画面を閉じた。
私は目の前のパソコンに目をやった。そうだ、私は課題をしないと。私は自分でも驚くほど落ち着いた様子でカタカタとロマンス主義の英国の詩についてのレポートを打ち出した。
すると、彼から電話がきた。私の連絡をみていないのか?またもムカムカに襲われたが、私はまた気持ちを押し殺し電話に出た。
「やっぱり言いたいことあるなら何でも言って。もう遠慮するような仲じゃないし。」
いや、どんな仲なんだよ!っと言いたい気持ちは抑えた。いちいちツッこんでいるとお笑いに走りたいだけだ。
まぁ、本題に戻るが、言いたいことがあるならと言われても、それが言えれば苦労しない。
…が、今の私は何でも言えそうな気がする。どこかでスイッチが入っていた。中学生時に付き合っていた二個上のヤンキーの元カレに暴言を吐いて別れた記憶が蘇ってきた。そんな幼稚な強さを持っていた私は今も健在だ。私は最後に自分のムカムカをぶつけてやることにした。いつの日かネットニュースで見た、男は喧嘩中に昔の話題を持ち出されることは嫌うと。そんなこと今は気にしない。今まで溜めてきたことをすべて吐き出した。
「お互い自我が強すぎて合わなかったんだよ。」
「俺は付き合ってるとき、そう思わなかったけど。」
それは当然だ。私が合わせていたんだから。彼にとって大事な時期であることも理解していた。夜中に眠れないと連絡が来ると寝るまで電話をつないだ。ドタキャンも許した。彼の勉強の合間に余計な負担はかけたくないと、なんでも水に流した。自分だけが苦しいと思っている彼を励まし、同じ話を何度も聞いてあげた。何度も我慢して、頑張っている彼を応援しようとした。それがいけなかったのかもしれない。でも私にはそうするしかなかった。だけどそっちからも電話をかけてきてほしいと言われ、私から電話しても出てくれたことはあったか?私が気を遣っていたことを気づいていたか?いや、気づいていない。なんなんだ、あの人は。…そういえば、文学作品で人間の内面の思考や感情をそのまま表現する小説技法を「意識の流れ」といったなぁ。
なんて途中でそんなことを考えるくらいの余裕すらも出てきた。彼はそういう人だと考えると気持ちが楽になった。
彼は最後に一言いってほしいと頼んできた。まだ私に何か言わせたいのか。最後に話を聞いてあげているつもりかもしれないが、話す方がどれほど労力を使っているのかも分かっていないのだろう。
感謝の言葉がいいか、それともお別れの言葉がいいかと悩む暇もなく私の口からは言葉がこぼれていた。
「もう、疲れた。そういうことだよ。じゃあね。」
電話を切り、目の前にあるパソコンを見る。ビクトリア朝時代の文学について〜のレポートを書いていた途中だった。私はBack Spaceキーを押し、「ビクトリア朝」を「ヴィクトリア朝」と打ち直した。