見出し画像

その24:初心と生涯剣道

 大学を卒業した当初の稽古は、月水金の盈進義塾興武館と週一・二度程度の野間道場が主だった。本物の剣道を志すと心に誓って大学を卒業したが、大学院そして理科大就職、さらに29歳の時父が脳血栓で倒れ20代は何かと忙しかった。30代からは山内先生と師弟関係を結んで、腰痛症を患った50歳まで週二・三度定期的に野間道場に通った。55歳から復活したが、最近はコロナで通えなくて残念でならない。

          *

 野間道場では稽古以外にも良い思い出がある。朝稽古が終わり、風呂から上がった小川忠太郎先生は、師範室でお茶を飲みながらいつも30分前後話をされた。私は一番若かったので更衣室の板の間に正座して話を聞いたものだ。小川先生が度々話されたのは、「無心」とか「無我」という話で、当時の私は馴染みのない内容だった。まして「無心の打突」や「無我の境地」での立ち合いはあり得ないことだと思っていた。一体どういうことなのだろうかと思い書店で一冊の本を買った。昭和51年(1976)発行の岡本重雄著『無我の心理学』でその時私は26歳。専門外だったから難解だった。その頃は女子剣道の資料を探していて、同じ現代心理学シリーズの『性差の心理学』や『女性心理学』を同時に購入してそちらばかり読んでいたものである。

 ところが、40歳前後から筋力の衰えを感じるようになり、スピードやパワーを補うにはどうしたら良いかを考え始めた。剣道には心理学が必要だと思い、再度『無我の心理学』を読み始めた。小川先生が話していたのはこのことだったのかと気が付いた。しかし、小川先生は90歳という年齢で野間道場にはもうお出でにならなくなり、翌年91歳でお亡くなりになってしまった。もう「無心」とか「無我」の話は聞くことはできない。後からあの時きちんと聞いて置けば良かったと思うがもう遅い。71歳になってもまだ分からない。これから先は「無心」・「無我」を求めての修行である。

          *

 『無我の心理学』を今読んで別の意味で勉強になった。世阿弥著『花鏡』から引用した一文がある。

「当流に万能一徳の一句あり、『初心忘るべからず』。この句、三ヶ条の口伝あり」という「初心」のことである。それはうぶな心であり謙虚な心である。それが稽古の原動力となり、出発点になると述べている。その繰り返しが芸道の奥義に達する秘訣となり、やがてまた、その人の人生そのものが奥深い所に達するようになるのである、と締めくくっている。

 そこで「初心」とはどういうことなのだろうかと考えた。思うに、初めて竹刀を持った時が「初心」ではない。ある程度稽古を積んで修錬しているうちに心が決まって来るのではないか。そして、何かを目指して目標を設定し、覚悟を決めた時に思う心とか、情熱を持って熱中し始めた時に思う心ではないか。それが「初心」と私は考えている。もしそれが正しければ、私の「初心」は社会に一歩踏み出した時の、「本物の剣道を志す」だが、いまだ道半ばである。学問・研究で喩えるならば、マックス・ウエバ―の『職業としての学問』(岩波書店)が分かりやすい。

 「第三者にはおよそ馬鹿げて見える三昧境、こうした情熱、つまり『ある写本のある箇所について、これが何千年も前から解かれないできた永遠の問題である』として、なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中するといった心構え、これのない人は学問には向いていない」(pp.22‐23)と手厳しい。

          *

 剣道も同じではないか。毎日の稽古を意欲的に行うか、そうでないかで長い年月の間に差が出てくる。最初は不器用でも本腰を入れたら好きになるものだ。そうなればしめたもの。正しい技術、正しい心で意欲的に積み重ねて行けば「正しい剣道」が身に付いていく。素振り一つを取ってみても、松籟庵便り(7)「盈進流稽古法」-3-で記したような素振りや技の稽古を休みなく繰り返していると、足捌きや体捌きができるようになって体幹が鍛えられる。次の段階にはタイプの違う相手を想定した足捌きや体捌きが種々変化してくる。そのようにして自分の体格・体力・運動能力に合った技が身に付いてくる。それが純粋に鍛錬するということなのである。

 このことが、父がいつも言っていた「古流は剣道の原点だ」という剣道の根本・原点を見詰めながら真摯に努力することなのである。「古流は剣道の原点」と言われると何だか漠然としていて掴み所がないが、盈進流稽古法を磨いていくと剣道に幅が出てくる。現代剣道のような直線的なものだけではなく、前後左右のみならず工夫するとあらゆる動きができるようになる。打ち合った時、相手の年齢、性別、個性そして相手の癖等を判断して立ち合うことができるようになれば、身体の動きがより自由になってくる。

 このような稽古を工夫しながら、ひたむきに全力を傾注すれば後に悔いは残らない。自分で努力したことがそのまま身に付くのだから……。他人のためにやるのではない、己の向上のために努力するのである。さらに地位や名誉やお金のためにやるのでもない。剣道を修行するということはそういうことなのである。

          *

 ところが私が剣道に没頭している間に、あらゆるスポーツがオリンピック競技のようになってしまった。気が付くと、結果が話題の中心となりメダルの色で評価されている。だから、結果が悪いとボロクソだ。メダルを獲得したらしたで、いつまでもメダルの色に縛られ、あるいはしがみついて努力を怠りいつの間にか心が変化してくる。

 剣道の本当の目的、あるいは本来の目的は純粋に鍛錬することにあるし、剣道の存在価値もそこにある。今70歳、80歳、90歳の人たちが日々努力している。「生涯鍛錬」、「生涯稽古」、「生涯剣道」の姿を、いま日本国中で見ることができる。

 私達は昨日より今日、今日より明日、明日より1週間後というように、一歩一歩向上することを目標にして稽古をしている。よく考えてみると、剣道は一生涯「初心」の繰り返しである。

令和3年(2021)2月21日
於松籟庵

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?