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その10:本来ならば、剣道は……

 大分前の話になるが、40代後半から50代後半まで剣道の根本精神である「剣(つるぎ)の思想」について探し求めたことがあった。その論文5編を集録したものが、『私は人生のすべてを剣道から学んだ(2)―剣の思想の考察を通して―』という小冊子で、すでに館員の皆さんには紹介した。この小冊子の結論は、「剣」には邪を払い、悪を退治するという思想があるということだ。分かりやすく言うと、「剣」には己の良からぬ考えを断ち切って「正義を貫く」という意味で、「己に克つ」とも言う。ということは、剣道の目的は「己に克つ」ために修行するということに繋がる。

 さらに、「剣」は皇位継承の三種の神器の一つとして受け継がれてきた。我が国は『古事記』・『日本書紀』の時代からこのような剣の精神が伝承されているのである。

 ところが明治維新後(1868)、政府の欧化政策により廃刀令が下され、大礼服着用者・軍人・警官以外の帯刀が禁止された。同時に、江戸時代に盛んに行われた剣術も廃れてしまった。それを憂いた初代館長小澤愛次郎は衆議院議員選挙に立候補し、当選すると全国の中等学校の生徒に対して柔道剣道を正課にするという「体育に関する建議案」を政府に提出した。そして明治39年(1906)3月、第22回帝国議会において「建議案」は可決し、剣道は再び息を吹き返した。

 それ以後、剣道は第二次世界大戦後の数年間は禁止されたが、現在に至るまで日本の精神文化・身体文化として伝承されている。

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 私たち盈進義塾興武館の館員はそれを守り、未来に継承する役目を担っているという誇りをもって修錬している。本来ならば、剣道はこのような心構えで鍛錬すべきであろう。それが「守道」ということである。

 今回の新型コロナウイルス流行に当たって、世の中は大きな変革を余儀なくされた。剣道界においても稽古は苦渋を極め、各種大会や審査会が中止あるいは延期された。そのような自粛ムードだったが、夏頃から高段位の審査会が開催されるようになり、少しずつ活気を取り戻しつつある。

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 剣道の原点は前述の通りだが、戦後復活すると普及・発展という名目で試合が行われ、段位制度が制定されて今に至っている。最近はそちらの方が中心になり本質を忘れがちになった。段位審査に合格することは目標であって目的ではない。しかし、挑戦する意欲を持たないとなかなか向上しない。

 同時に、目標に対して執着し過ぎないことが肝要である。執着は心が囚われることで一種の欲であり、執着し過ぎると苦痛を生む。だから、その「欲」を捨てれば気持ちが楽になる。

執着は心の働きによって起こる。心と身体とは別物ではなく、微妙に作用し合っているからだ。身体が勝手に動くのではなく、心が身体を動かしているのだ。「ユルユルグリップ」は心に余裕があるから、手の内がユルユルになれるのである。

 神道無念流の極意に、

剣は手に従い、
手は心に従う。
心は法に従い、
法は天に従う。
(因みに、「法」とは法則のこと)

 最終的に、「天に従う」しかないとなれば運を天に任せるか、今まで稽古してきたことを自分自身が信じて立ち合うしかない。この6~7ヶ月間は「盈進流稽古法」で鍛えてきた。正しい技を繰り返して積み重ね、その中から相手とのやり取りも学んだ。誰もやらないことをこれ以上やるのは無理、というほどやってきた。私自身これまで疑問だったことも解けて大きな発見もあった。私が言うのだから間違いないし、本人がそう思えば何も怖いものはない。

挑戦者の皆さんの御健闘を祈ります!

令和2年10月12日
於松籟庵

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