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その22:心を磨く

 40年近く前、ドイツ人の若者が1ヶ月間道場に滞在して稽古したことがあった。とてもまじめな青年で一生懸命稽古していたが、初めての日本で慣れないせいか稽古以外はつまらなそうな顔をして過ごしていた。3・4日して彼は私に質問してきた。

 「剣道修行で一番大切なことは何ですか」と。まじめな男だなと思ったので以下のように答えた。

 「はるばる日本に来て、しかも道場に寝泊まりしているのだから教えてあげよう。一番大事なことは、君が修行する道場の床を拭くことだ。しかも心を込めて磨くこと。そうすれば君の剣道は必ず向上する」と。

 彼は崇高な答えが返ってくるだろうと真剣な眼差しで私の話を聞いていたが、「一番大事なことって雑巾掛け?」という顔をした。日本では当たり前のことだがドイツではやったことがないらしいのでやり方も教えた。手の平の位置、足の使い方、身体全体の使い方、重心の位置、目を付ける位置、呼吸の仕方等々私の知る限りを説明した。もちろん嫌々ながらではなく、心を込めてやることも。私がやって見せた時は狐につままれた様な顔をしていた。しかし、それ以後雑巾掛けの態度が変わった。帰国する頃には、剣道はそれなりに上達したが雑巾掛けの方は見違えるほど上手になった。

 帰国してから剣友達に床を磨くことを教え、更に所属する剣道クラブの手拭いを作って私の所に送ってくれた。何と、デザインは雑巾掛けをしているイラストだった。その剣道クラブの会員達は一生懸命稽古に励み、何人かドイツ・ナショナルチームのメンバーとして世界大会やヨーロッパ大会で活躍するほどの腕前になった。その中の一人が40代前半で七段にも合格した。七段審査は東京だったので、会場から道場に戻って稽古した後ビールで祝った。彼は「小澤先生に感謝します」と頭を下げたが、「私は雑巾掛けを教えただけで、合格したのは君の努力の結果だ」と言った。雑巾掛け以外は掛かり稽古を受けただけのことである。

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 現在は外国人剣士を道場に宿泊させることは止めているが、10年くらい前まではいろいろな国から来て泊まって修行していた。しかし、泊めるには私なりの条件を課した。

①朝起きたら顔を洗う前に、床の雑巾掛けをすること。

 それは「一日が始まる前に、自分が修行する道場の床を拭くことから始めなさい」という意味だと教えた。1人なら全面、2人なら半面ずつ、3人なら三分の一面ずつ。狭い道場だが、全面の雑巾掛けは冬でも大汗をかくほどだ。

②次に、鏡に向かって素振り500回。

それが終ったら歯を磨いて顔を洗い、そして朝食。

これが出来れば泊まっても良いという条件だった。

 ホテル代がいらないから、皆キチンと守ってくれたようだ。「私は君たちの顔より、道場の床の方が大切なのだよ」と冗談を言って笑ったものである。このようにして宿泊し、時には一緒に野間道場の朝稽古に連れて行った。20年間、学校の夏休みや冬休み、あるいは仕事の休暇を利用して訪れる外国人剣士を宿泊させていたから、そういう若者が世界中に沢山いる。彼らは今自国で後輩達を指導し、その国のリーダーに育っていることが頼もしい。そして、皆が稽古の前後に雑巾掛けをして床を磨き、ケガや病気をしないように心掛けていることも嬉しいことだ。

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 ところで、新潟県長岡市で道場を開いている後輩がいる。彼の名は渡辺久雄さんで道場名は「久武館」。時々お邪魔して稽古させて頂いているのだが、初めて行った時玄関に掛かっている墨絵の額に目を奪われた。靴を脱ぐ前に、しばし見惚れて感心した。道場の床を子供二人が並んで雑巾掛けをしている情景だった。その左に「心を磨く」と流麗な文字。

 当時、私は雑巾掛けで「心を磨く」とは考えていなかった。どちらかと言うと、雑巾掛けをしながら足腰を鍛えることが先決だと考えていた。「心を磨く」と書かれた文字は新しい発見だった。作者の名前を尋ねたら茗渓学園の村嶋恒徳さんだと言う。名前は知っていたがほとんど話はしたことがなかった。彼にはこういう趣味があったのかと初めて知った。そしてどういう経緯で久武館にあるか尋ねたら、館長の剣友加藤治さんが村嶋さんと大学の同期生ということで納得した。それにしても剣道の世界はどこかで繋がっているものだと改めて思う。今年1月、村嶋さんから写真の額を贈られたので早速道場玄関に掲げた。

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 平成28年(2016)に『女子剣道の歴史と課題』という著書を自費出版した。出版前、表紙のデザインをどうするかで悩んでいたが、久武館で見た墨絵が頭から離れなかった。加藤さんから村嶋さんの電話番号を教えて頂いていたので早速電話して、「今度出版する本に使わせて頂きたい」とお願いしたら快諾してくれた。そして副題は迷わず「竹刀を振って『わざ』を磨き、床を拭いて『こころ』を磨く」と決めた。

令和3年(2021)2月1日
於松籟庵

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