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その14:「エエッ? 今のは何だったんだ?」

 「打った!」と思った瞬間に応じられた経験が私には三度ある。20代、30代、50代にそれぞれ一度ずつだ。20代と30代は山内冨雄先生、50代は西善延先生である。

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 26歳で六段に昇段し、スピードとパワーは伸び盛りというより発達曲線のグラフを見るとまさに充実期だ。前年に興武館は改築され杉の床板がいい匂いだった。週に一度水曜日に、山内先生はお出でになり私は必ず稽古をお願いした。一度目のその時は、皆は周囲で正座して見ていた。5分くらい経過した頃、私は捨身の面に打って出た。まさに、「打った!」と思った瞬間に返し胴を打たれていた。私の身体はしっかり伸び、手の内は茶巾絞り、右手は押手、左手は引手で、もし当たっていれば文句なしの有効打突だったろう。私の物打ちと先生の返した竹刀の間は1センチもなかったのではないだろうか。

 先生の返し胴の速かったことと言ったら「石火之機」そのものだった。カチッと先生の竹刀に触れたと思ったらもう胴を打たれていた。息を殺して見ていた人の口元から思わず溜息が漏れた。しかし、どうしてあの時打って出たのかも分からなかった。静極まって打って出たら反対にやられた。何とも言いようのない「エエッ? 今のは何だったんだ?」という感じだった。

 後年先生は、稽古の中の時間の効用ということを度々口にした。座右の言葉である「静極発動」(静極まって動に発す)だ。これが『剣談』の骨子である。

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 30代の経験は野間道場だった。面を打って出たら、擦り上げられて面を打たれた。この状況は20代と同じような態勢だったと思う。私の造語かもしれないないが、これが「場の設定」である。面を打って行いかざるを得ない状況に追い込まれたということだ。まさに「静極発動」なのだろう。20代の時より先生の攻めは柔らかったように感じた。先生は72歳だった。私は32歳で七段に昇段してから3年後の35歳、野間道場と興武館で剣道に脂が乗ってきた頃だ。 この時の状況を思い出すと、終了時間を少し過ぎていて、出席者全員が私たちの攻め合いを食い入るように見ていた。そういう状況の中だから緊張しないはずがない。そして捨身の面に出たところを「待ってました」という感じで「擦り上げ面」。先生とすれば、まさに理想的な攻めの結果だったろう。

 因みに、『剣談』を理科大時代の同僚教授佐々木亮さんに読んでもらったら、「山内という人は哲学者か?」と問われた。何故だと聞いたら、この内容はまさに哲学そのものだよと言った。

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 大阪の西善延先生には、40代の最後から59歳まで腰痛症で稽古ができなかった期間を除いて、延べにしておよそ10年御指導を頂いた。過去の記録『覚書』を見ると、西先生に初めて稽古を頂いたときのことが書いてある。

 「平成12年(2000)8月、初めて西先生に稽古を願う。中段に構えて半歩間を詰めた。西先生動かず。私は出た分だけ下がった。そしたら西先生は半歩出た。同じことを2回繰り返した。少し間をおいて、私は真っ直ぐ面に出た。西先生迎え突き。これも2回繰り返した。もう後がない。後ろは壁だった。そして3回目、これしかないというほどの面に出た。そこで『これぞ摺り上げ面』という技を打たれ、その瞬間私の目は天井を仰いでいた」。

 それから月に一度の大阪武者修行が始まった。あの延べにして10年の武者修行は本当に思い出深く懐かしい。

あの10年を思い出すと、マレーネ・ディートリッヒの歌と重なってしまうのである。「『望みは何?』と訊かれたら『幸福』と答えはするが、望みかなって幸せになったらすぐに昔が恋しくなるだろう。あんなに素晴らしく不幸だった昔が…」。

 いくら努力しても、いくら頑張っても運が悪くてチャンスに恵まれないことはある。そんな時、嘆き悲しむことはない。努力は必ず報われる。天は必ず見ていてくれるのである。

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  山内先生は37歳年上だから、私が26歳の時は63歳、35歳の時は72歳だった。

 西先生は32歳年上だから、初めて稽古をお願いしたのが50歳とするとなんと82歳だった。

うーん……。

令和2年(2020)11月10日
於松籟庵

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