二度目の自殺未遂。道はひとつしかなかった。
無事卒論を書いて卒業し、なぜかさらに忙しくなった。アルバイトとサークルのミーティング、増える介護、迫ってくる夏のキャンプ。暑い夏がやって来る。
介護が増えて
Tさんに、Wさんの介護者が足りないから行ってあげて、と頼まれた。
Wさんの介護は辛かった。例えば会議に行くからと電車で出かけた時のこと。車内でお弁当を食べるとWさんが言った。
障害者の言うことは絶対だ。介護者は考えてはいけない。とはいえ電車の中で飲食してはいけないとしつけられてきたわたしは反対した。
最終的には食べると言うWさんに負けて電車の中で食事介助をした。こんなことわたしは嫌だと叫びたかった。
わからなくて
バイト中に使う道具がどこにあるのかわからなくて聞いた。すると、
「探してから聞いてっ!」と言われた。
別の時には、道具を探してうろうろしていた。すると、
「何探してるの!先に聞いて!」と言われた。
これを聞いてわたしは混乱した。どうしたらいいのかわからない。
Uさんに相談したら、こうちゃんがそう言われるのはわかると言われた。とにかくわたしは人をイライラさせるらしい。
Wさんの介護に行ったら、Qさんのところにも介護に行ってと言われた。従った。するとWさんはPさんのところにもと言う。断る気力もない。
さすがにしんどくなってきたので、Tさんに相談した。すると「Wさんの介護者が足りないっていうから、どんさんに頼んだのに、なんでやろう」と言っただけだった。
一度始めた介護を断ることは出来ない。障害者の命の問題だからだ。
介護の辛さが、わたしにとってはものすごく大きなものだったということがつい最近わかりました。これを書くにあたって年表を作ったのですが、できた年表を見て介護の多さと内容の厳しさにやっと気づいたのです。
出来なくて
Uさんが仕事の都合でサークルやめたあと、女性スタッフがやるべきことはすべてわたしがやった。迎えた3度目のキャンプでは、新しく加わったスタッフがいたので、どうにかキャンプの準備が出来た。
でもわたしは全く役立たなかった。
キャンプ地についてからもずっと、自分が何をすればいいのか判断できない状態が続いた。
ぞうきんを絞ってと子どもに頼まれて絞ったのだけれど、力が入らない。拭き掃除する子どもに「ぞうきん絞った?」と気づいたスタッフが聞く。
「こうちゃんに絞ってもらった」と聞いたスタッフは「ぞうきんくらいちゃんと絞れよっ」とわたしに言った。もうだめだ。道具置き場の影でうずくまった。
すると、わたしを見つけた新しいスタッフが「こんなとこにいるぞっ!」と叫んだ。一体これは何なんだろう。
電話線の向こうで
キャンプの帰りのバスで、後ろの席に座ったスタッフがわたしへの文句を聞こえるように言い続けた。
もう終わりだと思った。
帰宅して、アルバイトをやめると電話した。Tさんに介護には行けないと連絡した。この部屋で宴会をした時に、誰かが持ってきた日本酒の瓶を取り出した。
バスタブの中でお酒を全部飲んで、手首をカッターナイフで切った。いつしか気が遠くなっていく。
「こうちゃーん、こうちゃーん」
声がする。出ない留守番電話からUさんの声が響く。ドア越しに聞こえる声はずっと続いた。だんだん目が覚めてきたわたしは電話に出た。
実家に帰って
電話の後、わたしは酷い吐き気に襲われた。電話の用件は特になかった。ただ電話しただけと言われた。手首を見ると、大きな傷ではあるけれど出血はひどくなかった。カッターナイフでは死ねないとまた教訓が残った。
実家に洗濯物を持って帰ると母がわたしの顔を見て驚いた。ひどい顔をしていたらしい。
またわたしは布団の中で過ごすことになる。
シリーズ
【坂道を上ると次も坂道だった】
でした。
全然上っていませんが。