ミニマリスト、14年分の日記帳を捨てる。
ずっとずっとどうするか悩んできた日記帳。
すべて手放しました。やっと。
日記をつけ始めたのは、高校3年生の頃。なんの予定も入らないだろうに、2000円近くするスケジュール帳を買ったことからはじまった。真っ赤な手帳カバーに一目惚れして即決だった。でも案の定、予定が埋まらないから使うタイミングがなくて、さすがにもったいないと余白に3行日記を書き始めた。そしたら、「◯日続いたしやめるのもったいない」って気持ちでなんだかんだ14年も経ってしまった。
それで、その間にミニマリストになったもんだから、“この日記帳をどうするか”って考えるタイミングがちょいちょいあって。
「これはわたしの歴史だから捨てられないよ〜!たまに読み返すこともあるし、がんばってきた証だし。捨てて後悔しても戻ってこないから日記帳だけは残す!」
「いや、これから毎年“絶対に読まれたくないもの”が1冊増えていくのってキツくない?しかも、一度でも捨てようか迷ったものは絶対捨てる結末だよね?それに、読み返してもいつも黒歴史って騒いでるじゃん。」
と頭の中で2人が言い争うから、もうほんとに何年もずっと迷っててさ。でも、踏ん切りがついた理由があって。それは【子どもたちに絶対に読まれたくない】ということ。もし夫やきょうだいに読まれたとしても、“同じ大人ならそういうこともあるか”で、理解してくれるかもしれないけど、親が書いてるものだと話が違う気がするんだよね。もしかすると子どもたちが傷つくかもしれない。そう思って保管するのはやめようと。
あわせて、日記を書く習慣もやめることにした。わたしが日記を書いていると、母はいつも心配していた。『嫌なことをわざわざ残して、記憶しておくようなことしなくていいんじゃない?』と。でも、私にとって書くことは排泄に似ていて、自分の中にある汚い澱のようなものを溜め込む方がしんどくて。日記帳には死にたい時にちゃんと死にたいって書けたし、誰かに飲み込んだ言葉をなかったことにせずいられたから、続けることができたんだと思う。でもだんだんと、そんな日記帳が、「書かなきゃ。」というプレッシャーに変わっていた。「あぁ、3日も空白だ。早く時間見つけなきゃ。」って。だから、自分を癒していた時間が苦しいものになっているなら、それはもう潮時なのかもしれないと思うようになった。もちろん、14年も続いたからやめると決めるのは簡単じゃなかったけど、日記なんてやってるかやってないか知ってるのはわたしだけだし、ものは試しだなと9月からやめてみることにした。今のところ、とても快適だ。
ということで、日記帳を全て捨てると同時に日記をつける習慣も手放すに至った。後悔してないかといったら、正直まだわからない。でも、いろんなものを手放してきて思うのは、なんでも取り戻せることの方が多いってこと。書きたかったらまた10年でも20年でも書けばいいし、日記帳捨てなきゃよかった〜って後悔するならそう学べばいい。後悔した〜って、noteに書けばいい。そういう少しの痛みみたいなものが生きるってことの一部のように思ってる。これからどんな気持ちになるのか未知数だけと、ただ、自分の決めたルールが自分をがんじがらめにしてくるなら、ルールを手放してしまうことも選択肢だなと今はとても前向きな気持ちで満たされている。
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