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四角い生活の中で

一人暮らしには「秩序」がある。そう思った。
私が作り上げた領域の中ですべてが滞りなく、いや、滞るのだけれど、それすらも想定の内側に入り込んでしまっているかのような、そんな「秩序」。

安心して1日を自分の気の向くままに過ごせることはとんでもない贅沢なのかもしれない。とんでもない贅沢であることは確かで、子供の頃から喉から手が出るほど欲しかったもの、そんな人生を生きていると考えると、あのときの自分に会いに行って、「大丈夫、その生活できるようになるから」なんて行ってあげたくなるような、それくらいに素敵なことでもある。

でもこの生活は思った以上に難しい。
「秩序」は習慣で、習慣はどんどん刺激がなくなる。
この生活にうきうきしていたら、あっという間にただぼうっと生活しているだけじゃないか、なんて寂しく感じるようになってしまっていた。

1日が終わった空腹を抱えた夜に、なにを食べようかなんて考えながら部屋の中でごろごろしていたら1時間くらい経ってしまっていて、時間の分だけ空腹に拍車がかかってしまって、体ももう動かないというかこれからなにか作る気にはとてもならないことだけははっきり自覚していて。そんな日に、カードケースに千円札を3枚入れて外に出て、なにを食べようかと思いながら駅まで歩くけれど、目に入るお店は「なんか違うんだよなあ」と空腹にもかかわらず通り過ぎてしまって駅に着いてしまう。ここまで来るともう引き返すか電車に乗ってどこかの街に行くか。引き返すのはなんだか癪だから、電車に乗ってしまう。きっとここら辺ならとついた駅のホームから地上に出てみると小雨が降っていたりして、傘を持っていない私はなるべく俯いて道を行く。ここもなんか、あそこもどうか、歩いているのも疲れてしまって結局どこにでもあるチェーン店に入ってしまう。この街に来てわざわざなにをしているのだろう私は、思いながら何回も食べたことのあるメニューを頼む。

満腹になると頭がすっきりして、急に自分がなぜこの街のこの店にいるのか理解できなくなる。なぜ家でご飯を作らなかったのだろう。なんで歩いてすぐにあるお店に行かなかったんだろう。空腹はおそろしい。加えて一日働いた後の空腹はもっと恐ろしい。人を変えてしまうようだ。思いながら、道を歩いていると、もう雨は止んでいて、濡れた道路に車のライトと音々が反射して、綺麗だと思って大通りを歩いてみることにした。もう夜だ。いま帰ってもしばらく歩いて帰ってもたいして変わりはない。

ぼうっと光はどうしてこんなにいいなと思えるのか、年々不思議に思うほどにはっきりとそう思えて、そんな光を見ながら歩くだけで次の駅に着いてしまったりするほど東京は狭くって、角を曲がると大通りの先に東京タワーが見えて、はっとした。なんだか夜の東京タワーを目の前にすると恥ずかしくなるような、でも立派なものを見たときのようななんとも言えない感情が湧いてくる。目の前に東京タワーが真っ赤に光っていて、どんどん大きくなっていって、私は近くにいる。道を歩いている人はまばらで、いまこの視界に入っている東京タワーを少なくとも数人しか見ていないと思うと悦びに似た感覚を覚えてしまう。

私次第でその「秩序」は大きく変わるのだけれど、なかなかその習慣から抜け出せない。ちょっとしたことでいろいろな、本当にびっくりするちょっとした綺麗なことで周りは満たされているのに、困ったものだと思った日だった。

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