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【短編小説】ケンエンのなか

 「浮気してるんですよ!あの人!ちょっと待ってくださいよ!」
 終電を逃すまいと人々が焦り、混みあったこの通りのすり抜け方を体得しているのかセナさんは誰にもぶつからずに無駄な動きなくするすると進んでいく。対して僕は都会の人の多さにはなかなか慣れずに厳ついカップルに肩がぶつかり睨まれたりビジネスバックを女性にぶつけてしまい舌打ちされぺこぺこと頭を下げたりしながらなんとか彼女の姿を見失わずに後ろを走る。逃げ足の速い逃亡犯を繁華街で追う、新人刑事の気分だ。あと一歩というほどに近づいても肩を掴んで歩みを止める権利が僕にはない。なかなか横並びになることができずにいるとセナさんがさっと左に曲がり路地に入っていった。そこは昼しか開いていないカフェが数件立ち並ぶだけで24時のこの時間帯には人通りがほとんどなく、ようやく追いつくことができた。僕が真横に並んでもセナさんは歩くスピードを上げなかった。逃げていたわけではないらしい。
 「君も吸う?」
 「要らないです!」
 セナさんは呑気に銀色のライターで煙草に火をつけて煙を吐き出した。確かライターとは言わずに特別な名前があった気がするが思い出せない。僕は嫌煙家だしスーツに煙草の臭いがつくのが嫌なので煙を避けるために3歩分セナさんの前に出た。向かい風が綺麗に煙を後方に流していく。この辺の地理感覚が全くないので自分がどこに向かっているのかわからないがとりあえずセナさんを引き留められる場所を探そうと目線を忙しく動かす。
 「家来る?タバコ臭いかもだけど。」
 「へ?」
 意味の解らない提案に素っ頓狂な声を出してしまう。
 「いや、だってアパートの前まで追いかけてくるなんてねぇ?」
 セナさんは背後に立つ新しくも古くもない丁度いい雰囲気を醸し出すアパートに視線を向けそれから僕に返答を仰ぐ表情をする。
 「いや、おかしいです!彼氏がいる女性が他の男を家に上げるなんて!」
 「そうかな?」
 「そうですよ!」
 もう浮気している彼氏にもその浮気相手にも怒りはなくなった。いつまでも呑気でそのうえ男を簡単に家に上げようとするセナさんに腹が立ってきた。
 「声がでかいよ。何時だと思ってんのよ。」
 腹が立っていたので知らず知らずのうちに声量が上がっていたらしい。
 「すいません。でも、セナさんはそれでいいんですか?浮気されてて。」
 「だから、大声で喋んないでよ。」
 「だって。」
 「ごめん。トイレ行きたくなっちゃった。やっぱ、家来て。」
 彼氏持ちの女性の家に上がるのは気が引けたがこのまま話は終えられないので仕方なく玄関までは行くことにした。セナさんはエレベーターを待たずに階段を一段とばしで駆けていく。小銭と銀色ライターがカチャカチャとぶつかる音がジーンズのポケットから響いてくる。先ほどの飲酒量を思い出すとよろけて落ちてくるのではないかと思ったが全くその気配はなく「よっ」とか「ほっ」とか言いながら軽快に一気に5階まで上がっていった。愛煙家のくせに強い肺を持っている。
 玄関前に着くとポストの中身を取り出すようにと頼まれる。取り出している間、セナさんはガチャガチャと乱暴にカギを開ける。数枚のチラシ以外は大したものは入ってなさそうで日頃からポストをチェックする習慣があるのがわかった。扉が開くとセナさんは靴を脱ぎ捨てカギを靴箱の上の置き場にほっぽり投げ部屋の奥に消えていった。僕は玄関までという約束だったので扉を閉めてその場に佇む。
 「うわ!びっくりした~本当に玄関までのつもりなの?」
 ひっくり返ったadidasのハンドボール スペツィアル を整頓しにトイレを終えたセナさんが戻ってきた。
 「もちろんです。僕は勝手に上がり込んだりするような人間ではないです。」
 変なやつだと軽蔑するような視線を向けてくる。踵を返し玄関から見える部屋のメインの窓を開きベランダに出て行ってしまった。話すにしては距離が遠すぎるので仕方なく部屋に上がり込んだ。深い緑色の観葉植物が幾つか壁際に並ぶ。家具は木目調に統一されているがソファだけブルーで目立っていた。これ以上部屋の内観を詮索しないように足早に通り抜け、ベランダに出る。玄関から持ち運んできた自分の革のビジネスシューズを履き直す。隣に並んでもセナさんは見向きもせず退屈そうにシルバーのリングが3つ飾った左手の人差し指と中指で挟んだ煙草を上下に動かし灰を落としていた。
 「気にしないんですか?浮気されてても。」
 少し冷静になっていた僕は静かに聞いてみる。右側にいる僕に煙がかからないようにしてくれているのか口の左側で煙草を咥え、唇をイーっと引き伸ばし吐き出している。
 「君はさ、日本生まれ日本育ちでしょ?」
 流れは完全無視で質問に質問で返された。ただ、黙っていられるよりいいので大人しくはい。と返事をする。目元は地毛の黒色が目立ち始めた肩上ほどの金髪のウルフカットの髪に隠され表情がわからない。ただ、声色から至って真剣に質問されたと感じる。
 「日本は好き?」
 「はい。」
 「でも、海外旅行、したことあるでしょう?」
 「ありますけど。」
 昔、家族でハワイに行ったことがあるし大学生の頃、同期とヨーロッパ旅行に行ったこともある。
 「浮気ってそういうものだと思うんだよね。」
 言わんとしている意味が全く分からなかった。
 「日本に生まれて、この土地も、人も、食べ物も全部好きで、大した文句もない。けどさ、偶に外国に憧れるでしょ?綺麗な海は日本にもあるのにわざわざお金払って飛行機乗って遠い国の有名なビーチを目指すでしょ?それとおんなじ。カナタは私を愛してくれてると思うし、私が1番だと思う。でも、彼だって偶には別の所に行きたくなるんだよ。特に不満はなくてもね。」
 「え?浮気を容認しているってことですか?海外旅行行ったんだ。くらいのノリで?」
 「そゆこと。勿論、私がしたって彼は怒らない。そういう約束だから。」
 「約束って言ったって。」
 「だいたい、私達の関係を君が心配することないのよ。」
 確かに僕にセナさんの恋愛観を口出しする権利はない。けれど。
 「でも、全く海外旅行に行かず、ずっと側にいてくれる人がいたらそっちの方が良くないですか?」
 「そりゃそうだけど、そんな奴いないでしょ。」
 吸い殻を灰皿にぐりぐりと押し付ける。その動作が何かを封印しようとしている様に見える。
 「いますよ!」
 セナさんはこちらをチラリと向き、肩をすくめて信じられないというようなジェスチャーをする。
 「ってことで、カナタと私の関係を理解した?なら帰りな?」
 セナさんが抑え込む何かを知りたいしこのまま遊ばれ続けている彼女を見るのは辛いが、諦めるしかないのかと帰ろうと思ったその時、閃いた。
 「さっき、カナタさんもセナさんの浮気を容認していると言いましたよね?」
 「言った。」
 まだ帰らないのかと嫌な顔をし、もう1本火をつけて吸い始める。
 「じゃあ、僕にもチャンスがあるってことですか?」
 口元に煙草を近づける手先の動きが一瞬止まった。が、口に咥え大きく吸い込むと僕の首に手を回しグイッと下に引っ張り唇を寸分の狂いなく僕の唇にピタリとくっつけた。驚きのあまり動けなくなっていると口に大量の煙が吹き込まれた。ハニートラップに引っかかり、危険な錠剤を口移しされたスパイのように彼女を突き飛ばし、ゴホゴホと咳き込む。
 「君の方が私なんか無理でしょ?」
 ニヒルに笑いながらまた煙草を灰皿に押し付ける。
 生まれて27年間、喫煙者に近づかないようにし、なるべく受動喫煙も避けてきた。それなのに直接体内に汚らしい煙が送り込まれてきた。これまでの努力が水の泡になった気がした。どうでも良くなった。ベランダの柵に置かれた黄色の箱を取り、1本頂戴した。見様見真似で口に咥えるとセナさんが初心者の様に慌てながら火を付けてくれた。会釈をして小さく煙を吸い込んでみる。案の定、またゴホゴホと咳き込みセナさんは
バカだなあー。とケタケタと笑う。そして僕の足元に視線を落とすとやっと僕が靴をベランダに持ち込んでいたことに気づいた。
 「律儀だねぇ。カナタは裸足で出入りしていたよ。」
 生真面目さを馬鹿にされた上あんな浮気野郎と比較されムッとする。
 「セナさんだって、わざわざ靴を整頓しに玄関まで戻ってきたじゃないですか。」
 丁度いい反論が浮かんだので強気に言ってみる。
 「うるさいなあ。あれはお気に入りの靴だから。」
 そう言うがいきなり上がり込んだのに部屋の乱れた箇所はぱっと見では見当たらなかった。勿論、靴は他に2足しか出ておらず、その2足すらも綺麗に揃えて置いてあった。
 「僕、海外旅行には行きませんよ。もう、行きたい所には行ききったし。でも、まあ、セナさんが行きたくなったら僕も一緒に行きます。」
 精一杯の告白をした。
 「絶対に?」
 「はい。」
 「まあ、本当に玄関から先に入らない男だもんね。信じてみるかあ。」
 先程まで向けられていた軽蔑と冷めた視線がなくなり、目尻を下げてくしゃっと笑った。
 「煙草、辞めよっかな。」
 僕が奪い取ったのがちょうど最後の1本だったようでセナさんが箱をぐしゃぐしゃと握りつぶした。
 「別に、もういいですよ。好きなように吸ってください。」
 僕はもう嫌煙家ではない。セナさんが嗜む姿だけは特別に許したくなっていた。
 「君が煙草を嫌っていた理由は何?」
 「不健康になりそうだからです。」
 「じゃあ、なんで不健康になりたくないの?」
 健康でいたいのは皆共通だと思っていた。だからなぜ健康でいたいのかなんて疑う余地もなく考えたこともなかった。
 「生きたいからでしょ?」
 僕の代わりにセナさんが答えた。
 「君は立派だねぇ。真面目に働いて体を大事にして。すごいよ。」
 今度は生真面目さを馬鹿にされた感じはしなかった。羨望の眼差しを向けられた気がした。
 「ただ、一つ不勉強なところがある。それは、人は誰しもが健康で長生きしたいと思っているわけではないということ。君は知らなかったでしょ?」
 僕は言葉に詰まった。
 「いや、本当に煙草、もういいかも。どうせすぐには死ななそうだし。見たでしょ?階段駆けあがっていったの。成人してから9年間吸い続けているけど私の肺はなかなかくたばらないの。まあ、そうだよね。チキって1番少ないやつ選んでたからかな。」
 1番少ないというのはタールとニコチン量のことらしい。銘柄の中にもシリーズがあり、程度がある。握りつぶした黄色い箱に何の思い入れもなさそうな視線を送る。そして部屋に置かれたゴミ箱にすとんと投げ込む。
 セナさんが煙を燻らせる姿を見ることがなくなるのは嬉しいような寂しいような気がした。
 「ありがとね。君のお陰でちょっと生きたいなって思えた。もう、お金を燃やさなくて良い人生を送りたいな。そうなれるかは君にかかってるからね。」
 僕の肩に頭を寄りかからせながらそう言ってきた。もし彼女が早死にしたら僕は過去の浮気野郎達を殺しにかかってしまうかもしれない。そうならないようにできるかは貴女にかかってるからね。そう心の中で言葉にした。
 セナさんは徐にスマホを取り出しボイスメッセージに
 「ごめん。浮気した。こっちが本命かも。別れて。」
 と元気よく残し、カナタに送信した。カナタからはすぐに返信があり、
 「わかった。明日荷物を取りに一度だけ帰る。」
  と書かれていた。
 「アイツの荷物って観葉植物だけなんだけどね。」
 と笑いかけてくる。僕は最初に目についたあの観葉植物を気に入っていたので彼のセンスだったことと明日には無くなってしまうことを残念に思った。
 
 
 

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