【短編小説】夏に雪は降らない

 「先生!」
 帰宅ラッシュで大混雑する駅の構内に思ったよりも大きすぎた声が響いた。周囲の人が一斉に振り向くかと思うと恥ずかしくなり少し顔が熱くなる。しかしそれは杞憂に終わる。誰もが両耳に小さなイヤホンを突っ込みながらスマホを片手に人流に合わせてさらさらと目の前を流れていく。その流れを横断しながら唯一こちらに向かってくる人物と目が合った。先生だ。
 「ねえ、先生って呼ぶのやめてくれる?前にも言ったよね?悪いことしてる気分になるんだから。」
 手元をちらちらと見ながらイヤホンをケースにしまい、ちょっとした文句を言ってくる。
 「大丈夫です。倫理的にも法律的にも悪いことはしてないんですから。」
 「そうだけどさ、なんかさ~。」
 先生は納得がいかないというように左右の眉間に力を入れ、口をむぎゅっとつぐむ。
 「わかってます。先輩、でしたね。間違えちゃいました。一番最初に呼んでいた呼び方はなかなか抜けないんです。」
 「いや、わかるけどね。」
 ”先輩”と呼び直し、その反応を窺うがもう先輩は自分の呼称に興味はないようでスマホに目を落とし、見当を付けていたお店の場所を地図アプリで確認していた。先輩は少しでも集中すると猫背になる。この姿、何度も見てきた。ゆるやかな角度で上を向いている睫毛が時折ゆっくりと上下重なる。その速度の数倍の速さで自分の鼓動が鳴っていた。先輩は地図を読むのが得意なようですぐにスマホをカバンに戻し、背筋を伸ばして歩きだした。
 まだ就職して1ヶ月も経っていない仕事終わりでも軽やかな先輩の靴音を前方に聞きながらすぐ後ろをついていく。そんなに速く歩かないで。もっとゆっくり歩いて欲しい。手を取り、そう言いたかった。
 先輩が以前から行きたかったというお店に到着し、カウンター席に横並びで座る。その店は燻製料理がメインで店内はなんとなく全体的に靄がかかり、燻された臭いが充満していた。お酒が好きな先輩が好みそうだとすぐに納得した。ドリンクメニューは見ずにハイボールを2つ注文した。前回、1番好きなお酒はハイボールだと意気投合したのを覚えていてくれた。先輩は料理のメニュー表にざっと目を通し、4つの料理の写真を指差し、食べられるかどうか聞いてきた。先輩が好きなものを一緒に食べたい。写真と料理名をじっくり見て吟味することなく、おいしそうです。と答えてしまった。先輩は一瞬疑うような視線を送ってきたが、それ以上は構わずに注文をした。
 「辞めたかー。進クラ。」
 届いたハイボールのジョッキを互いにぶつけながら聞いてくる。先輩は乾杯の音頭を取ることはしない。形式ばらずに時を進めてくれる。
「辞めました。4年間しかない大学生のアルバイトにもう2年間も身を捧げたので、次に向かおうと思います。」
 進光クラス、通称”進クラ”は個別指導学習塾だ。そこは先輩と出会った場所でもある。高校2年生の時、あまりの数学の不出来に危機感を持ち入塾した。授業を担当してくれたのが当時大学1年生の先輩だった。初めて出会ったときは先生と生徒の関係だったため、今もまだ先生と呼ぶ癖が抜けきらない。先生が描く円や図形、座標はフリーハンドでも美しく、数式が綺麗に収まっていた。そしてそれを描く手の動きに淀みはなく、さらりと問題を解いていく。何回説明してもらっても理解できないことが何度かあったが解るようになるまで繰り返し説明してくれた。ノートの端に書き込まれる先生に教わった証がどんどんと溜まっていった。高校3年生になると文系を選択して数学とはおさらばすることとなり先生の授業を受けることはなくなった。でも、毎日自習室に通い、他の生徒が受けている授業の様子を横目で見ていた。先生はどの生徒からも人気だった。課題をやってこなかった一人の生徒に厳しく対応したという噂話を聞いたとき、不純な気持ちで通塾していることがばれてはいけないと悟った。その後、大学受験を経て今度は自分が先生側に立つことになった。先生歴において先輩と後輩の関係になった。教室が入るビルで颯爽と階段を上る背中に向かって初めて”先輩”と呼んだときはやっと”生徒”から抜け出した積年の思いが溢れすぎて上手く発声できずに一発で先輩の耳には届かなかった。2回目で振り返ってくれた先輩は生徒の時に向けてくれた変わらない笑顔で
 「スーツ、似合ってる。」
と褒めてくれた。決められた学生服から解放され、自分で選んだスタイルに身を包んで自信をつけた姿を見せることができた。けれど、長身で細身な先輩のスーツ姿の方がやはり、断然格好良かった。
 「じゃあ、もう先輩と後輩でもないよね。」
 先輩は飲みのスイッチが入ったのか柔らかそうな茶色い艶やかな髪の毛を細く白い繊細な指先を器用に動かしてゆるりと束ねる。授業中はいつも束ねていたのを思い出す。
 「夏美さん。」
 うっかりしていた。美しい動きに見惚れて無意識にそう呼んでしまった。突然名前を呼ばれて驚きと共に顔を覗き込んでくる先輩。すぐに顔を綻ばせていいね。と了承してくれる。先輩は料理をつまみ、2杯目のハイボールに口をつけ豪快に飲み込んでいく。自分は回想に気を取られまだ1杯目だが同じペースに合わせて飲んでみる。日が落ちれば肌寒い4月。大量に氷の入ったアルコールは火照った身体の中を分かりやすく通り抜けて行く。
  2杯目の半分を飲み干した先輩は少し気が緩んだようで今日終了したという新人研修の出来事を楽しげに話し始めた。先輩は化粧品会社に就職した。営業、企画、販促など様々な仕事をこの3週間で経験し、来週からどこかの部署に配属されることになっているらしい。
 「私はなんでもできるから。」
 と戯けながらあまり配属先に期待はしてないと言った。しかしその陽気な振る舞いはちょっとした強がりだと解る。グラスの水滴が付いた桜色に輝く指先を神経質におしぼりで拭いている。表情から多少の疲れが見える。ここは自分の出番だと思い、大変なことはなかったですか?と愚痴を溢しやすい質問をしようと思った。
 「いや、でもね、タカハシが家でご飯を作って待っててくれる日があるからなんとかなりそう。」
 不安気な視線が伝わってしまったのか先輩はそう言葉を続けた。タカハシと呼ばれる人は先輩の恋人だ。先輩は恋人のことを話す時、いつも苗字呼び捨てで呼ぶ。惚気話を聞かされているはずなのになんだかキュンとしない。まるで女王様と執事の話を聞いているようだ。先輩が照れながら惚気ている姿を見るのはいつ見ても楽しい。ただ、自分がその執事になり、女王様の支えになりたいと思ってしまう。その想いが悟られないように、いぶりがっことクリームチーズという今まで見たことない組み合わせの食べ物を口に運ぶ。上に蜂蜜がかかっていた。大人な燻製の風味とクリーミーなチーズと蜂蜜のねっとりとした甘味が口の中で分裂していく。今の自分の複雑な気持ちがバラバラと崩れていくのがわかった。
 空いたグラスを見て先輩が2杯目を勧める。アルコールを頼むのが無難だが、コーラを注文した。遠慮はしなくていいんだよと言ってくれたがそういうわけではない。できる限りしらふのような状態で先輩を見ていたいと思ったのだ。ハイボール1杯くらいでは特段変化は現れないが2杯目を飲むと陽気になってしまう。普段の飲み会ならば全然いいのだが、今日は違う。先輩の一挙手一投足に一喜一憂したいのだ。それができる繊細な状態を保ちたい。
 「次のしたいバイトは決まってるの?」
 惚気話に一段落がついたようで、話を振られた。きっと聞かれるだろうと思って、事前に返答を考えていた。
 「留学しようと思って。お金も少し足しになるくらいは貯まったので。」
 どこに?と先輩は興味津々で聞いてくる。アメリカの大学に留学した人の体験日記を読んできた。どんなことをするつもりか記憶を辿りその日記に沿って饒舌に説明していく。先輩はなんの疑いも無さそうに聞いてくれる。
 「期間は1年間。夏休みから行こうと思ってるので7月には。」
 「そっか、そっか。」
 先輩は上体をこちら側に向け、目を輝かせて顔を覗き込んで話を聞いている。高校2年生の時、授業終わりに1時間も進路相談にのってくれたことを思い出す。先輩の汚れひとつない目を見ながら息を吐くように嘘をつく。留学なんて行かない。
 引き止められる。そんなことはあり得ないと分かっていた。でも、先輩の華奢な手にギュッと腕を捕まれたいとやはり思ってしまった。今日限りは他人の背中を押す力を備えた先輩の声に少し苛立つ。本当に渡米してやろうかと考えてしまう。
 明日もお互い仕事と大学があった為、22時に店を出た。ほんの少し飲み過ぎたという先輩が夜風に当たりたいというので公園の中を通って遠回りしながら駅に向かうことにした。街灯が木を照らしている。もう9割は緑色の葉となり、道に落ちているぐちゃぐちゃになった花びらを見てかろうじて桜の木だとわかった。先輩は朗らかに笑いながらヒールをコツコツと鳴らしスタスタと歩いている。あまり酔っているようには見えない。行きと同じように、そんなに速く歩かないでと言いたくなる。なるべく駅まで時間をかけて向かいたい。
 先輩のスマホが鳴った。画面をチラリと盗み見ると”ゆいと”と表示されている。タカハシのことである。ごめんね。と言って先輩は歩きながら電話に出た。束ねていた髪の毛を解き、前髪を掻き上げながら一つ二つ返事をして優しくありがとうと言って電話を切った。詳しくはわからないが最寄りまで迎えに行くとかそんな会話だと推測する。
 改札を抜ける。先輩は
 「じゃあ、またね。」
 と言った。適当にはい。と返事をする。先輩の挨拶に対して酷い反応だったと思う。もう嘘をつきたくない。ありもしない次の機会に対して「また。」と返すことはできなかった。先輩は腰を少し屈め、顔を覗き込み、
「頑張れ、雪音ちゃん。」
と肩を叩いてきた。留学に対する不安が顔に出たと思わせてしまったらしい。先生と生徒、先輩と後輩の関係だったので先輩は私のことを今まで苗字にさん付けで呼んでいた。初めて名前を呼んで貰えたのだった。
 ホームに向かって階段を上がっていく先輩を下から見送る。上がり切ったあと、先輩は振り向き、長い腕を高く挙げて左右に大きく振って声に出さずバイバイという形に口を動かした。口角をくいっと上げ、靨を作り、並びの良い白い歯を見せつけてからホーム側に吸い込まれて行った。
 「夏美さん。。。」
 誰にも届かない小さな声で呟きながら目に残像を焼き付ける。そして一呼吸してからスマホを取り出す。LINEの1番上にあった先輩とのトークを開き、「ありがとうございました」と一言書き、送信を見届けたら友達から削除した。その他のSNSのフォローも全て外しブロックもした。他の先輩講師や同期の講師のアカウントも断捨離した。先輩に繋がりたくなった時の最後の砦も残さなかった。指先は震えていたが迷いはなかったはずだ。途中、目から溢れる涙で操作が滞りそうだったが、勢いで消して行った。大丈夫。私にはノートがある。高校卒業後に教科書やノートを一掃したが、先輩の痕跡が残る数学のノートだけは本棚に残してある。
 大学生の2年間を捧げたのはただのアルバイトではない。先輩がいるバイト先だ。就職して先輩のいなくなってしまった職場にはもう興味はない。ずっと機会を窺っていたが今日、私の恋は叶わないことが明確に分かった。夏美さんと私が共存することはありえないと改めて実感した。キッパリと諦めがつく。
 1年間は先輩が私に気軽に連絡しようとすることはないだろう。だってアメリカにいることになっているのだから。そしてその間に先輩の人生から私は忘れ去られるだろう。
 嫌いだから関係を断つのではない。大好きだから関係を断つのだ。そう自分に言い聞かせ、先輩にこの気持ちが伝わっているといいなと望む。
 冷たい飲み物で冷え切った身体にホームに滑り込んだ電車がほんのり温かい春の空気を運んできた。
 「伝わってるよ。」
 と先輩に優しく包み込まれたような気がした。

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