映画感想文─THE FLASH─自らの選択、その結果を引き受け生きていくこと
以下ネタバレ有
怒りはどの様にして生まれるか考えてみると、他者を許せないと思った時、という答えが自分の中から率直に出てくる。
様々な映画の中でも、
・相手の身勝手を責める
・相手の無理解を責める
・相手の判断を責める
そんなシーンを見受けることが多く、私はその度に嫌な気持ちになる。それが何故なのかは良く分からないが、怒っている他者を見るのは私にとって好ましいことでは無い。
THE FLASHでは、冒頭からバリーは苛立ち、怒り、不平不満を口にしている。
サンドイッチ屋の店員がいつもと違う、サンドイッチ屋の店員がお喋りで鈍い、アルフレッドの自分への扱い、バットマンの身勝手さ、同僚の自分への態度、言動、父親の裁判に対する表現。
映画を見ていて、それらへのバリーの反応に共感を抱きこそすれ、何故そんなに不愉快そうなのか、と感じることは特に無かった。どれも、気分を害する理由として至極まっとうに思えた。
思い通りにならない。こんなはずじゃない。そうじゃない。
バリーが過去に遡り、自分の得られなかったものを得て成長してきた別次元の若いバリーと対峙した時、その苛立ちや不快感は最大値に達する。殴ろうとした。つらくあたった。後に激しく感情を爆発させた。
ジャスティスリーグから見てきて、バリーがここまで感情を荒げるのは珍しいと感じられたが、バリーの怒りの原因を考えてみると、やはり納得ではある。
怒りを向ける相手が、今の自分より幼く無神経で、今の自分より気が利かず至らず、今の自分の持っている知識や技術を持っていないから。そして、大切な母さんの形見の猿くんをダーツで串刺しにしているから。
それなのに、教えればすぐに出来る。友達が沢山いる。両親に愛されている。悔しくて妬ましくて不快で、それを抑えて抑えて接していて、それでも限界に達してしまったから爆発した。仕方のない事だ。
バリーから少し離れる。
バットマンだ。
ジャスティスリーグ版のバットマンも、スーパーマンに対して殺そうとする程に激しい怒りを抱いていた。バリーに対しては怒りを向けることは無いが、クロノボールについてバリーから伝えられた時、自分の経験からの考察を伝え、バリーを諌め、忠告を与えた。「それをするべきではない」と。バリーにはそれは届かなかった。そしてマルチバースが発生した。
一方、マルチバースでのバットマンは、考えをバリーに伝えはしても、「それをやるべきではない」と一度も言わなかった。バリーが試みる事を見守り、バリーに足りないものを与え、バリー達を先導、フォローし、最期まで、マルチバースを発生させたバリーを一度も責めなかった。大馬鹿野郎、と評した事はあったが、怒りを向けたりはしなかった。
マルチバースのバットマンは、自らが行ってきたこと、その結果として今の自分がここにあることをただ受け入れ、静か…曲は賑やかだったが…な余生を過ごしていた。バリーの提案を一度は断った。けれども、バリーが見せる執着、真剣さ、その怒りを目の当たりにし、運命、という言葉を聞いた時。最後のシーンを、今、己に訪れた運命を迎える覚悟を決めたのだろうと、私はそう思った。
引退して自らを省み、過去を悔いて過ちや愚かさを自覚し、自分自身を深く理解していたバットマンだったからこそ、己の見地に達していない他者を責める必要も無く、何が足りないのか察して黙って補ってやる事が出来たのではないだろうか。それは別にバリーの成長を促そうとか、反省させようとか考えてのことではなく、ただ、そうしたいと思ったからそうした。そして、自分がそう出来ることが嬉しかったから、自らが引き受けた痛みの処置をしながらの、鏡を見てのあの表情だったんじゃないかと思った。
最期まで、クールでありながら、暖かなバットマンだった。生き様で、簡潔な言葉で、バリーに沢山の事を、想いを伝えて、場を後にしたように見えた。だから、あのシーンは悲しかったけれども、暖かな想いが残った。優しさがあった。格好良かった。
そうしてバリーも、クロノボールの中で、自らの行いが招いた結果を知り、何度も何度も言われ続けてきたその言葉への理解に至って、マルチバースのバリーにそれを伝えることになった。その結果として、マルチバースのバリーは対消滅することを選んだ。今自分が苛まれて行っているこれは過ちで、続ければこうなる、では今自分が終わらせなければならない。それを行動に移せたマルチバースのバリーの覚悟と勇気も、素晴らしかった。
怒りの原因。
『許せない、認められない、そうじゃない、違う、駄目だ、おかしい、間違ってる、不当だ』
その感情に囚われその感情を起因として間違った行動を続けていくこと、それがヴィランの生まれる原因のひとつで。そうしない、そうならない為に、諦めて手放すこと。
その怒りが不当な理由ではなく、正しいのだとしても、その怒りを理由に他者を害し、間違った行為を繰り返し続けて良い理由にはならない。その事に気付けるのは、過ちを犯す手を止められるのは、自分自身しか居ない。ただ、周囲が、当人がその気付きに至るまで待つ、サポートする事はできるのかもしれない。
とはいえ結局、バリーはマルチバースで「その日」を繰り返し続け老いたバリーと若いバリーの決着を見届け、どうにかして元々居たはずの世界線まで戻ってきたけれども、(そのシーンは映されてはいないが)監視カメラの画角を変えるという過去改変をまたやってきたと思われるので、「過去を変えてはいけない」というルールを守れずじまいではあったが。
「必要があるのなら、それを自分が行うことが可能であるのならば、その行動を自分が選び取り実行に移せばいい。ただしその結果は、周囲に与えた影響込みで自分が引き受け生きていく」という覚悟が出来たんじゃないかなと、私はそう思った。願わくばその結果が、世界にとって好ましいものであると良い。私もそう願って選びとり、生き続けていくだけである。
どのような評価をされようと、私はこの作品が好きだ。正しさや間違いについて言及せず、バリー自身が歩んで、選んで辿り着いた物語だから。